峠への道

満沢鉱山跡前分岐点

 道は鉱山入口で二手に分かれる。峠に行くならコンクリート壁の遺構を目印に左に曲がろう。


道路消失

藪の手前で途切れる道路

 道なりに進むと、やがて藪の手前で道が途切れてしまった。ここまでは一応自動車で来られるが、路面状態は決してよくない。オフ車乗りはもちろん、そうでない方は十分注意しよう。


登り口

石垣上の登り口

 藪を抜け、地形図とにらめっこしながらそれらしい道を捜すと、杉林の合間に人為的な小径が見つかった。
 ここからは僅かに残った道跡を追いながら森を抜け、峠へ向かうことになる。読図術は必須である。


九十九折り地帯

地図にない九十九折りを登る

 杉林を抜けると、すぐにブナ林に突入する。このあたり、地形図では斜面を直線的に登るように道跡が描かれているが、実際の道跡は細かい九十九折りが連続する。地形図のとおりに道があるものと思っていると、大いに戸惑ってしまう。落ち着いて現在地を読みとろう。

背坂峠のブナの美林

 苦しいだけの道中ではない。あたりを見渡すと、ちょうど時期だったので、ブナが見事な新緑を付けていた。この峠道、とにかくブナの森が美しい。


ブナの切り通し

ブナの森に残る切り通し

 峠に至る道にはいくつか切り通しが残っている。かつてはこのブナの森を、人々が行き交う時代があったのだ。


尾根道激ヤブ地帯

尾根道から下を見る

 慎重に道跡を追っていくと、尾根筋に出る。ひとまずここへ出られれば一安心。

尾根道に茂る激ヤブ

 しかし目の前には道跡を隠すかのように藪が広がっている。思わずひるんでしまうが、地形図を頼りに先へ進む。


灌木地帯

例によって立ちふさがる灌木

 激ヤブ地帯を抜けると、再び道跡が明らかになったが、今度は灌木が立ちふさがっていた。古道ではおなじみの光景だが、毎度通り抜けるのには気を遣う。

道跡を追って進む

 稜線から再び逸れるあたりで、道はまた細かなカーブを描く。


鞍部間近

鞍部に至る道

 さらに進むと深い谷が右手に現れる。谷は背坂川の上流にあたるから、けっこうな高さまで登ってきたことになる。ここまで来れば峠はもう間近。滑落にも十分注意しよう。


背坂峠

背坂峠鞍部・お地蔵さんと馬頭観音碑

 道跡をたどってブナの森を抜けた末、小さな広場に着いた。ここが背坂峠の鞍部である。峠には小さなお地蔵さんと馬頭観音碑が建っている。人跡稀になったにもかかわらず、今なお峠を守っている姿に深い感慨を覚える。

 最上町こと小国郷は、山を越えて尾花沢との結びつきが強かった。戦国時代、小国郷と峠を挟んだ尾花沢の関谷周辺は同一の領主によって治められていたことがあるため、山を越えての交流が少なからずあった。また、江戸時代に新庄の戸沢藩が当地を治めるようになってからも、小国郷と新庄城下を往来するためには、険路を長距離にわたって移動する必要があった。それよりは一山越えてでも尾花沢に出る方が便利が良かったため、必然的に結びつきが強まることになったのだ。
 中でも背坂峠は、小国郷の中心地向町と尾花沢を最短で結ぶ位置にあるため、大いに利用された。そのことは向町の最上駅のすぐそばにある踏切が、なぜか「満沢街道踏切」と呼ばれていることにもうかがえる。満沢経由で向町から尾花沢へ抜ける背坂峠は、小国郷の主要道だったのだ。
 お地蔵さんは、道中の安全を願ってここに建てられたのだろうか。かつてこの峠が、盛んに利用されていたことの証である。

 特に馬頭観音は、小国郷にとって特別な意味がある。その昔、小国は馬産地として名を馳せており、馬頭観音の信仰が盛んな土地柄だったのだ。
 江戸時代、戸沢藩が馬産を奨励して数々の振興策をとったことと、当地が馬産に適していたため、小国郷の農家は競って馬を育てた。芭蕉が堺田で残した「蚤虱馬の尿する枕元」の句は、小国馬産の様子を留めた句でもある。人と馬が一つ屋根の下で寝泊まりする様を見て、芭蕉は小国郷ならではの風俗に驚くとともに、遠くまで来たという感を強くしたのだろう。
 馬と縁の深い小国郷の人たちが信仰していたのが、馬頭観音だった。馬頭観音は頭上に馬の頭を戴いた仏だが、その姿から馬の守護仏と見なされ、転じて、馬子・博労・馬産家の守り仏としても広く崇敬されるようになった。特に小国郷では、慈覚大師の昔から馬頭観音が信仰されており、それが戸沢藩が当地で馬産を始めた理由の一つだったと伝わっている。
 育てられた馬は畑を耕させたり、荷物を運ばせたりするのはもちろん、いざというときは軍馬として戦にも駆り出された。馬は貴重な財産だったのだ。
 小国馬の評判は相当なもので、あるときは将軍家に献上されたこともあったという。向町の馬市で取引された馬は、村山や米沢、遠くは越後にまで売られていったが、その通り道となったのが他でもない、この背坂峠だった。峠は向町と尾花沢の最短距離にあたるほか、勾配も比較的ゆるやかで、馬も通行しやすかった。それだけに多くの馬が博労や馬子たちに連れられて、この峠を越えていったのだ。

背坂峠の馬頭観音碑

 碑文によれば、峠の馬頭観音は幕末の安政2年(1855年)、加賀国(現在の石川県南部)の坂井英助が建てたもののようだ。史料がないので憶測の域を出ないが、彼は遠く加賀の国から、馬を買い付けに来た博労だったのだろうか。碑は加賀への遠い道中の安全を期して建てられたものかもしれない。また、馬頭観音は供養のために建てられることもあったという。峠越えの最中彼の馬が息絶え、それを弔うために建てられたのかもしれないが、今となっては知るよしもない。

 峠の衰退は、明治初期の「土木県令」三島通庸による小国新道の開通に始まる。小国新道は現在の国道47号線にあたる道筋で、開通によって新庄との交通の便が格段に向上した。大正6年(1917年)に鉄道こと陸羽東線が開通すると、新庄との結びつきはますます強くなった。すると山を越えてまで尾花沢に出る理由がなくなり、従来の山越えの道は廃れていった。
 そして背坂峠にとどめを刺したのは、おそらく満沢鉱山だろう。先ほど見たとおり、鉱山はちょうど峠道を分断する形で開かれている。また、往時は関係者以外の立ち入りも制限されたことだろう。道が途中で分断され、日常通る人も少なくなった結果、峠は藪に埋もれていったのではないだろうか。

 戦後、自動車や農機の普及によって馬の需要が減ると、小国の馬産もまた廃れることになった。小国で最後の馬市が開かれたのは昭和36年(1961年)。満沢鉱山閉山2年前のことだった。
 近世に栄えた背坂峠の道は近代の訪れによって衰退し、その終わりとともに藪に埋もれることになったが、そこは確かに人が行き交う道だった。鉱山跡とお地蔵さん、そして馬頭観音は、黙して往時を語っていた。

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