ズリ山

中腹のズリ山

 ブナの切り通しを抜けると、突如として赤茶けたズリ山が現れた。満沢鉱山と関係があるのだろうか?
 その後調べたところによると、昭和の初めから同30年代あたりまで、尾花沢側の峠中腹に金鉱があったことが判明した。おそらくはそれと関係があるものと思われる。

ズリ山から南方を見る

 ひとまず登ってみた。ズリ山の上からは展望が開けた。南に見える山はたぶん翁山か吹越山。

ズリ山北方の展望

 北に目をやれば岩谷沢川上流の谷が見える。背坂峠は岩谷沢川と背坂川の分水嶺になっている。


藪突入

藪突入

 ズリ山を下りてまた道跡を追う。さっきまでの穏やかな道はどこへやら。道跡はひどい藪に突入してしまった。

毎度ヤになる灌木のヤブ

 毎度のことながらこんな灌木、どうやって突破しろと。ちなみに道跡はさっきのズリ山のてっぺん付近をかすめている。こちらを使えば藪を通らずに済むのはもちろん大幅な近道になるが、一方で道を見失う恐れもあるので、利用する場合は十分気をつけること。


運命の分かれ道

わかりづらい中腹の分岐地点

 藪に埋もれた道跡を追ってひたすら進むうち、またまたひどい灌木地帯が立ちはだかった。実はこここそが第二関門、峠に行けるかどうかの分かれ道だったりする。

こっちが峠に至る道

 道跡は一見倒木地帯に突っ込んでいるように見えるが、よく見るとその直前に上に登る道がある。実はこちらこそが峠に至る道で、灌木地帯の方に行くと道を見失ってしまう。一見分岐があるようには見えないので要注意だ。ここで道を誤ってそのまま進むと、遭難する恐れが非常に高い(実際遭難しかけました)。

これを見たら行き過ぎです

 一方、灌木地帯を十数メートル進んだところには「山」と刻まれた標柱がある。これを見たら道を誤っているので、おとなしく分岐まで後退しよう。


峠への道

再び歩きやすくなる道跡

 無事に第二関門を突破すると、非常にわかりやすい道に変わった。あとはおとなしく道跡をたどっていけば、峠にたどり着ける。

杉林をかすめて進む

 杉林をかすめ九十九折りを繰り返し、さらに登っていく。

灌木のトンネル

 枝こそ張りだしているが、これまで通ってきた藪に比べれば極楽のような状態だ。

ブナの美林再び

 再び美しいブナの森。さっきまでの苦戦が一気に報われる。

行く手をふさぐ倒木

 とはいえところどころにはこんな倒木や枝が通せんぼしているところもあるので、通行には十分気をつけよう。

謎の大岩

 道ばたにはこんな大岩もある。どこから転がってきたのだろう?

穏やかな古道 ここを抜ければ鞍部です

 ひたすら穏やかな古道。鞍部の前後は非常によく道が残っている。うち捨てられて最低でも半世紀以上経っていることが信じられない。


再び鞍部へ

背坂峠鞍部

 そして尾花沢側からも鞍部に到着。鞍部ではお地蔵さんと馬頭観音碑が変わらない様子で待っていてくれた。かつてここを通った人々は、ここでほっと一息ついてから、無事の到着を感謝して、お地蔵さんたちに手を合わせていたのに違いない。


岩谷沢楯跡

岩谷沢楯跡

 尾花沢側にも峠にまつわる史跡が残っている。岩谷沢楯跡は峠入り口の岩谷沢地区に残る山城跡で、さきほどの「背坂峠」の標柱があるあたりにある。こちらにも標柱があるのでそれとわかるが、大部分は山林に埋もれている。
 楯にまつわる伝承がないので詳しいことはわからないが、戦国時代、細川氏か小国日向守の一族が、峠を守るために作ったと考えられている。岩谷沢は背坂峠の道と山刀伐峠の道が分岐する場所なので、当地にこうした山城が作られたのだろう。
 細川氏は戦国時代に小国郷を支配していた一族で、その勢力は峠を越えて岩谷沢にも及んでいたとされている。小国日向守は細川氏が最上義光に滅ぼされた後小国郷にやってきた武将で、最上家が改易されるまで当地を支配していた。


関谷番所跡

関谷番所跡

 岩谷沢を離れ県道沿いに少し南に行った場所、関谷地区には名前のとおりに関所の跡がある。関谷は宿場町尾花沢から背坂峠・山刀伐峠に至る道筋にある。江戸時代、ここに口留番所が置かれ、峠の通行を見張っていたと伝わっている。

 松尾芭蕉と門人河合曽良が「おくのほそ道」の道中で、小国郷から尾花沢の鈴木清風の元に向かったことはよく知られているが、曽良の日記には、その際関谷の口留番所を通ったという記述がある。ところが面倒な関はさっさと通ってしまいたかったのか、正確な地名を訊くこともなかったようで、「最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。」と、関谷の名を覚えてもらった様子がない。

 背坂峠の運命を決めた人物として、芭蕉を忘れるわけにはいかない。
 本来芭蕉は堺田から向町に行き、そこから主要道背坂峠で尾花沢の清風の元に行く予定だった。ところが大雨のため堺田で予定外の滞留を強いられ、急いで尾花沢に向かわなければならなくなった。そこで急遽通ることになったのが、山刀伐峠だったのだ。
 当時の山刀伐峠は飽くまで間道であり、杣人が利用するに過ぎなかったが、堺田から尾花沢に向かうには、背坂峠を通るよりも近かった。決死の思いで山刀伐峠を越えたくだりは「おくのほそ道」に詳しいが、それゆえに山刀伐峠は「俳聖芭蕉が越えた峠」として知られることになり、文学の道としてその価値を一気に高めることになったのだ。
 近代以降、間道にすぎなかった山刀伐峠が順次整備され、県道まで開通したのに対し、かつての主要道背坂峠が藪に埋もれていったのは実に対照的である。山刀伐峠が整備されたのは、芭蕉が越えたからという理由だけではないだろう。しかし「芭蕉が越えた峠」という肩書きが山刀伐峠の名を今に伝え、整備を進める大きな一因になったことは否めない。
 もしあのとき堺田に大雨が降らず、芭蕉が向町経由で尾花沢に向かっていたら、今頃山刀伐峠の代わり、背坂峠に県道が通っていたのかもしれない。

(2006年5月/2007年5月取材・同6月記・同11月追記)


案内

場所:最上郡最上町上満沢と尾花沢市岩谷沢の間。背坂川源流。郡界だが標識はない。標高581m。

所要時間:
上満沢合の山橋たもとから満沢鉱山跡まで徒歩約20分。満沢鉱山跡から鞍部まで徒歩約40分。
鞍部から岩谷沢側車両進入限界まで徒歩約1時間。

特記事項:
 満沢鉱山跡までは一応自動車進入可。ただし路面状態はよくない。鉱山跡から先は全くの廃道。徒歩以外での進入はできないものと考えてよい。鞍部までかろうじて道跡が残っているが、至るところに藪が生えている上、自然地形と見分けが付きづらい場所もある。踏破には地形から現在地を読み取れる程度の読図術が必要。遭難の恐れがあるので、鉱山より先は経験の浅い方だけで立ち入らないこと。
 尾花沢側から登る場合、道がわかりづらいので追うのに苦労する。特に中腹までは迷いやすい場所が何度も現れる。遭難する恐れが高いので、色つきリボンやGPSを持参するなど、十分に対策を講じておくこと。全線踏破を試みるなら、最上町側から尾花沢側に抜ける方がやりやすいと思う。周辺には熊が出没するので、熊対策もお忘れなく。それと鞍部は意外にゴミが多かった。くれぐれもゴミを捨てないようにお願いします。国土地理院1/25000地形図「羽前赤倉」。同1/50000地形図「鳴子」。

参考サイト:

「真・漢楚軍談 別館 猫とか、旅とか?」 おばらさん
URI:http://kanso.cside.com/neko_tabi/

「最上町」
URI:http://mogami.tv/

「最上町観光協会」
URI:http://mogami-kanko.info/pc.html

参考文献

「芭蕉おくのほそ道」 萩原恭男校注 岩波書店 1999年

「南出羽の城」 保角里志 高志出版 2006年

「最上町史」 最上町 1984年

「無言の野の語部たち 山形の石碑石仏」 安孫子好重 日本文化社 1992年

「山形県鉱山誌」 山形県商工労働部商工課 1977年

「やまがた地名伝説 第四巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2007年

「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年

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