坪景峠(つぼけとうげ)は大江町左沢と西川町吉川を結んだ小さな峠である。現在は衰退して久しく、夏になればすっかり笹藪の下に埋もれてしまうが、季節限定で、かつての道を追うことができる。
峠にはいくつか登り口があったのだが、今回は地形図にも載っている、尾畑山西の稜線上を越え大江町軽井沢から西川町吉川に抜ける古道を歩いてみた。軽井沢の他には大江町市ノ沢地区から登る道もよく利用されていたそうだ。戊辰戦争で官軍の進軍路になったとこともあるのだが、こちらは現在地形図上では道がつながっていない。
峠口となる軽井沢は、大江町の中心部左沢の北西にある中山間集落だ。左沢から直線距離にして4キロほどとそう離れていないが、過疎化が相当に進んでおり、空き家や廃墟が目立った。「軽井沢」と聞けば信州の保養地軽井沢を真っ先に思い出す方も多いだろうが、大江町の軽井沢は信州とはうってかわって、にぎやかさや華やかさとは無縁である。「軽井沢」の語源は諸説あってはっきりしないが、そう呼ばれる土地は峠下にあることが多いので、峠と縁のある名前であるような気がする。信州の軽井沢には碓氷峠があるように、大江町の軽井沢には坪景峠があるわけだ。
峠口はその軽井沢集落のはずれにある。舗装路の最奥で道が二つに分かれたところが入り口だ。雪に埋もれた右の方の細道が、峠につながっている。
ちなみに夏場の様子。古道はもちろん未舗装である。
入り口すぐそば、右手の高台には墓場がある。軽井沢に住まった人々の祖先が眠っているものと思われる。このあたりには水場があって道行く人々ののどを潤していたというのだが、雪か草木に埋もれたか、あいにくそれらしいものは見あたらなかった。
道跡自体はほぼ完璧に残っている。取材に行ったのは3月の下旬で、路面にはまだ厚く雪が解け残っていたが、かえってそのおかげで道跡がはっきりとわかる。
廃道歩きではおなじみ、路肩崩落箇所に遭遇。
「坪景」の名は「崩れる」を意味する「つばける」に由来するとも言われる。その割に廃道と化してそれなりに年月が経っているにもかかわらず、驚くべきことに激しく痛んでいるのはここぐらいだった。
倒木が道に覆い被さっているところもあるが、これも廃道歩きではおなじみの光景。この程度はまだ楽勝。
峠道は月布川(つきぬのがわ)支流梵字川が流れる谷筋に沿っている。その谷筋を見ると、至るところに百枚皿のようになった地形が認められるが、これは棚田の跡と思われる。
軽井沢は山間地ゆえ平地に乏しく、田んぼは沢沿いに拓かれた。村全体で8ヘクタールほどの水田があったそうだが、ここもそのうちのいくつかだったのだろう。それも今やすっかり枯れ草に埋もれ、久しく耕作された気配がない。おそらくは軽井沢の衰退にともない放棄されたのだろう。
ちなみに地形図では、このあたりは水田として表記されている。往時の名残はこんなところにも残っていたりするわけだ。
軽井沢側は、西に向かってひらけた谷筋を巻くように道が造られている。山ひだに沿ってカーブする箇所がいくつかあるが、道ははっきりしてるので迷う心配は少ないだろう。
道なりに進むうち、前方に鉄塔が見えてきた。多くの峠がそうであるように、坪景峠も送電線の通り道になっている。この鉄塔が見えてくると、そろそろ中腹へとさしかかる。
中腹の方はだいぶ雪が解けており、路面が顔を覗かせていた。足元には一冬分の雪でぺしゃんこになった笹藪が。この峠、道跡はほぼ完璧に残っているがそのかわり薮がひどくて、快適に歩ける時期はごく限られている。
さっき見た送電線と交差する。行く手にはこれから越える稜線と鞍部がはっきりと見える。鞍部目指してこのあたりから、登りが少々急になる。
同じところの夏の様子。谷はすっかり緑に埋もれている。
送電線を過ぎると、少々道が悪くなる。雪解け直後だというのに次第に薮っぽくなってきた。
倒木と笹藪の混成攻撃。笹藪も雪解けを待っていたのか、さっそく道を覆いつつあった。それでも夏場に比べればはるかに歩きやすい。
ちなみにこのへんは夏場になるとこうなる。
鞍部目指して登っていく。左カーブで直角に曲がるところで、場にそぐわない人工物を発見。
何かと思って近づいてみたら、なんと昔のピックアップトラックだった。見捨てられてから相当に月日が経っているようで、もちろんどちらも廃車状態である。車種を調べてみたところ、どちらも1970年代前後のものらしい。その頃までは、曲がりなりにも、このへんまでは自動車で出入りできるような状態だったようだ。
どちらのトラックにも、ドアに所有者の名前が書いてあるのが時代を感じさせる。農家が野良仕事で使っていたものだろうか。廃車と化して道ばたに放置していたのがそのまま忘れ去られ、峠の衰退とともに薮に埋もれてしまったのだろう。
道を挟んでトラックの反対側は、谷筋に臨む広場になっている。一休みにはもってこい。
自動車広場のあたりまで登ってくると、これまでたどってきた谷筋が一望できるようになる。登ってきた道はもちろん、だいぶ上の方まで棚のような地形が広がっているのが見える。
おそらく、往時は鞍部近くまで耕作の手が入っていたのだろう。トラックも現役時代には、このあたりと軽井沢を何度も行き来したのだろうか。お百姓さんもこの谷筋を眺めながら、小昼を摂っていたかもしれない。
史料によれば、山の方には桑が植えられていたようだ。昭和の中頃まで軽井沢では養蚕が盛んで、どこの家でも近隣の村から数人の人を雇って蚕を飼っていた。中には百貫目もの繭を取る家もあったそうだが、絹の価格が下落して立ちゆかなくなって、山を売るといった苦労もあったそうだ。炭焼きも盛んだったようで、最盛期には村に4つ竈があって、300俵以上も生産したことがあるという。
峠の中腹、自動車広場の下あたり、少し道を逸れて谷筋に入ったところには、自動養蚕機の部品がうち捨てられてあった。かつて養蚕が盛んに営まれていた頃には、どこかの家で活躍していたのだろう。
鞍部鉄塔への道。管理道なので古道以上に整備されていた。
鞍部までもうすぐというところまで登ってきたが、例によってそう容易にはたどり着けない。前方に道が見えるが、これは鞍部ではなく稜線上に建つ鉄塔につながっている。
鞍部への道はこちら。画像は鞍部への分岐点を西側から撮ったもので、右手の道が軽井沢、左手の道が鉄塔につながっている。真ん中にある上り坂が鞍部への道だ。
真ん中の道を選ぶと、夏場の薮がそのまま残ったような笹藪と倒木が待っていた。やっぱり最後の最後で一苦労することになった。
最後の薮地帯を征しついに鞍部到着。あいかわらず笹藪だらけだが、今は残雪の下敷きになっており、かろうじて鞍部らしさをとどめていた。
夏になると背の丈ほどもある笹藪に埋め尽くされ、この鞍部もすっかり隠れてしまう。