尾畑山からの光景

尾畑山からの光景

 残念ながら、鞍部から北側の展望はあまり開けない。そこで薮が退けているのをいいことに、峠の東にある尾畑山まで足を伸ばしてみたら、北に月山と葉山、その麓に国道112号線がはっきり見えた。谷筋には峠道もはっきりと見ることができる。
 坪景峠は左沢と六十里越街道をつなぐ峠でもあった。むしろ左沢と六十里越街道を結ぶ道として、この峠はできたと思われる。六十里越街道は、月山南麓を越え村山地方と庄内地方を結ぶ道で、出羽三山参詣路としての性格が強かった。それゆえ六十里越街道に接続するもろもろの道もまた、三山参りの行者が数多く通ることとなったのだが、それは坪景峠も例外ではなかった。
 坪景峠を越えた三山行者は主に置賜からのもので、中には越後方面から来るものもいた。行者たちは軽井沢で一息ついて、それから峠を越えて六十里越街道に出て、月山や湯殿山を目指したわけである。
 そして軽井沢の少年らも、15歳になるとこの峠を越えて三山参りに出ていた。村の者を先達に立て、二泊三日の日程で月山と湯殿山にお参りしてくるというものだ。軽井沢から峠を越えて吉川に出て、街道沿いの沼山、間沢、水沢、本道寺を経由して志津に至り、そこから月山と湯殿山を廻り、軽井沢に戻ってきた。もちろん全行程徒歩で、荷物に草鞋三足を携えていたとか。おそらくこの旅には、修学旅行か通過儀礼のような意味合いがあったのだろう。少年たちも峠を越える際、ここまで足を伸ばしただろうか。そしてこれから向かう月山を眺めたりしたのだろうか。


下り道

下り道その1入り口 冬枯れの森を下る

 鞍部は稜線上に数十メートルにわたって続いている。そこから吉川側に下りる道は二つあるのだが、どちらの道を選んでも、しばらく下った場所で合流する。

下り道その2入り口 下り道合流地点
もう一つの下り道と下り道合流地点。往時は複数の道が峠に通じていたようだ。

 旧い地形図を見ると、かつての峠周辺は方々に道が延びており、様々な道を通って峠に行くことができたようだ。下り道が二つあるのは、それだけ人々が行き交ったことの名残だろう。
 峠は軽井沢と出羽三山を結ぶ道でもあったが、それ以上に生活の道としての性格が強かった。軽井沢の耕地の中には、峠向こうの吉川から人が来て耕している場所もあった。また、峠を越えての輿入れや婿入りも多数あったようで、史料によれば、軽井沢に嫁いだ人の実に4分の3が峠の北から来ていたそうだ。

谷筋に沿って下る わかりやすい道跡

 西川側の下り道も大江側同様谷筋に沿って延びている。残雪のおかげで道跡がはっきりとわかるので、追うのに苦労しなかった。


鉄塔

西川側ふもとの鉄塔

 道なりに下っていくと、やがて鉄塔のそばに出る。ここまで来ればふもとはもうすぐ。

ふもと鉄塔・夏場の様子

 例によって夏場の様子。もはや道がどこにあるのかさえ分からない。


吉川に下りる

吉川に下りる

 鉄塔のところで道は直角に折れ、西川側峠口へと向かう。

下ってきた道筋

 来し方を振り返れば、さっき下ってきた道跡が認められる。

見捨てられた発動機

 下る途中、見捨てられた発動機を発見。大江側同様、西川側も古くは谷筋に沿って田んぼが作られていたようだ。

出口は間近 農道に出る

 前方に舗装路が見えてきた。舗装路は坪景2期地区農道で、峠道はそこまで続いている。


吉川峠口

吉川峠口

 かくして農道との合流地点に出てきた。峠口には松が一本あり、その根元には石碑が建っている。

峠口の南無阿弥陀仏碑

 風化のおかげで碑文はやや不明瞭だが、天保2年(1831年)に立てられたもので「右かるひ沢道 左あてら沢みち」と刻まれており、旧い追分であることを示している。中央には「南無阿弥陀佛」の文字もあるので、道中の安全を祈願して建てられたもののようだ。峠道の様子はご覧のとおりだが、人が行き交った痕跡はこんなところにも残っていた。


坪景2期地区農道

坪景2期地区農道 農道の切り通し
坪景2期地区農道。切り通しはかつてトンネルだったらしい。

 現在は尾畑山の東側に坪景2期地区農道が開通しており、これで吉川から市ノ沢まで抜けられるようになっている。この道自体は古くからあって農作物など運ぶのに利用されていたが、狭いトンネルと砂利道で何かと不便だったため、昭和58年(1983年)に改修されている。現在はこの農道を坪景峠と呼ぶこともあるようだ。切り通し建設工事の際、500〜600万年前の火山活動をとどめた地層が発見され、山形大学が調査にやってきたという逸話もある。
 古道を衰退させたのは、おそらく自動車の普及だろう。自動車が人々の足になると、少しぐらい遠回りになっても走りやすい道を選んで通るようになる。出羽三山への足も徒歩から車に替わり、人々はマイカーで六十里越を往来するようになった。周辺の道が車道として整備されていく中取り残されていたところ、代替路となる新しい農道が整備されたことで、坪景峠はとどめを刺されたのではなかろうか。峠と縁の深い軽井沢の過疎化も、衰退に拍車をかけたに違いない。

 かつて峠は至るところに人の手が入っていた。この峠が整備されていたら、今頃軽井沢はもう少し賑やかで、中腹にもトラックはなかったかもしれない。そんな悲喜こもごもも、夏になれば全て藪の下となる。

(2006年8月/2008年3月取材・同6月記)


案内

場所:西村山郡大江町軽井沢と同西川町吉川の間。尾畑山西部。標高約300m。

所要時間
軽井沢峠口から鞍部まで徒歩約30分。鞍部から吉川峠口まで同30分。

特記事項
 道跡はほぼ完璧に残っているが、全くの廃道である。夏場は深い薮に閉ざされ、踏破は困難になる。状態を考慮して、徒歩以外の手段は勧めない。行くのなら薮が収まる春先がおすすめ。積雪期にスノーシューで歩くのも面白いかもしれない。道を追うなら大江側、鞍部に行くだけなら西川側から登ると行きやすい。鞍部付近は南側の展望がよい。少し東に行けば北側の展望も得られる。1/25000地形図「左沢」。同1/50000「左沢」。

参考文献

「大江町史」 大江町教育委員会 1984年

「大江町史 地誌編」 大江町教育委員会 1985年

「地名のなぞを探る ―やまがた―」 木村正太郎 やまがた教養社 1996年

参考サイト

「西川町資料館」 西川町教育委員会教育文化課
URI:http://www.yamagata-net.jp/nishikawa/index.html

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