山形県には三つの一級水系がある。県の8割を占める最上川水系、庄内の赤川水系、そして西置賜より発し新潟県で海に注ぐ荒川水系。
宇津峠は最上川水系と荒川水系を分ける峠である。そしてこの峠は越後街道十三峠二つ目の峠でもあり、街道一の難所と恐れられてきた。
宇津峠には様々な時代の道が残っている。大きく江戸期の古道、明治期の旧県道、昭和の旧国道、作業道、現代の国道113号線の五つがあり、これらが重複・錯綜している。今回は各時代の道に触れながら、主に古道・旧県道をたどっていくことにする。
古道・旧県道へは、旧国道の途中から登っていく。旧国道は国道113号線新宇津トンネル手前の新落合橋のたもとから分岐している。正面に見えるアンテナ塔が峠の目印だ。
分岐には宇津峠への道を示す標柱が立つ。道は旧橋で白川支流の狢沢(むじなざわ)を渡る。峠は古くは「うつほ坂」とも呼ばれていた。「小国の交通」では、その地名の由来を「沢の脇にある」を意味するアイヌ語「ウツ」に求めている。
旧国道の左側にはその昔宿屋兼の茶屋があって、笹餅で評判だったと伝わる。交通の減少にともない昭和10年代には店を畳んだが、建物自体は昭和50年代まで残っていた。今やその建物もなくなってしまったが、二本並んでぽつんと立っている木に、当時の様子が偲ばれる。茶屋はあのあたりにあったらしい。
峠の古道は有志により保存・整備されており、現在でもウォーキングが楽しめるようになっている。旧国道のわきに「宇津峠」の標識があるので、それに従いここから登っていく。
古道入口から斜面を登り切ったところに小さなお堂がある。このお堂は落合地蔵尊と呼ばれ、周辺の村々から信仰を集めている。現在のお堂は昭和40年(1965年)、茶屋の家人を総世話人として建てられたもののようだ。腰痛に験があると言われるが、それは「腰」と「越し」の洒落でもあるのだろう。
峠の古道はお堂の裏手から続いている。整備の賜物か、標柱も立っている。
お堂の裏手からは、いかにも古道といった趣の道が伸びていた。道はしばらく林の中を進む。
古道を歩いて行くと、やがて丁字路に出る。車が通ったような跡もあり、山道とは異なる雰囲気だ。
ここで合流するのは明治時代に作られた旧県道だ。ここからしばらくはこの旧県道を追っていくことになる。
ここでちょっと逆戻り。丁字路を左に折れ、明治期の旧県道を下っていくと、すぐに旧国道に出られる。今回は古道から合流したが、旧県道を歩きたいという方はここから登っていこう。
さておき旧道を登っていくことにする。草に覆われすっかり山道といった雰囲気だが、旧県道は古道に比べ幅が広い。このあたりはやはり近代になってから整備された道だ。地形図にはこの旧道が表記されている。
さすがに自動車では難しいだろうが、山チャリやオフロードバイクなら難なく通れそうな状態だ。実際に通るかどうかはさておき。
道なりに登っていく。道形がはっきりしているので、跡を追うのに苦労しない。道は九十九折りを繰り返し、次第に高度を上げていく。
あるカーブにさしかかったところで、枯れた木の株を発見。傍らの看板には「切腹松」の文字。この枯れ株にはこんな言い伝えがある。
その昔薩摩の殿様が名刀村正を秘蔵していた。しかし一人の家来がそれを盗み出してしまった。家来は刀とともに遠く逃げ落ちていったが、やがて追っ手に見つかってしまう。万事休すと家来はその場で腹を切って自害した。その家来が切腹した場所が、この松があった場所なのだとか。
例によって事の真相は定かでないが、戊辰戦争で米沢と薩摩が争ったことや、改修に薩摩の人間が深く関わっていることを思えば、薩摩との因縁を感じさせるこの伝説には何かの寓意が隠されているのでないかと深読みしたくなる。
切腹松を過ぎ中腹にさしかかる。道は大きく西へと向きを変える。やがて左手下方に旧国道のフェンスが見えてきた。このあたりは旧国道の北側斜面にあたる。
中腹は折りたたまれた九十九折りで一気に高度を上げてゆく。南面しているせいか薮も目立つ。画像は初夏(6月上旬)のものだが、ところどころ盛大に草が茂っているところも。
登るうち古い雪崩防止工が現れた。ここは東に向かって開けた崖っぷちで、道はこのフェンスをかすめきわどく続いている。ここは旧トンネル坑門の上にあたる。防止工は旧国道の建設に伴い作られたものと思われる。
この崖は砂岩・頁岩からなる断層崖である。さらに川の浸食によってこんな険しい地形ができあがったらしい。
行く先にも防止工が並ぶ。
宇津峠は「ワス」こと雪崩の多発地帯として恐れられていた。江戸時代、冬場はワスのため、ほぼ通行が絶えていたという。特にこのあたりは大比戸(おおひと)と呼ばれる場所で、ワスの巣として恐れられていた。近代になって道が良くなってからも雪崩で人死にがあったとか、囚人に雪踏みをさせていたという話が伝わる。
水系を分ける峠であるためか、雪を含んだ雲はこの峠を越す際、身軽になるためどっさり荷物を置いていく。冬将軍もこの峠を越えるのに難渋するようだ。この防止工は、この峠が雪崩の名所だったことの証と言えよう。
こちらは春の融雪期の様子。ふもとでは間もなく桜が咲くというのにまだ厚く残る雪に、ここが「ワス」の名所であることを感じさせた。
防止工のあるあたりからは東の眺めがよい。眼下にはこれまで通ってきた道が少し見えた。その昔越後の良寛和尚が宇津峠を越えた際、ここからの風景に感じ入って詩をひねったとか。