防止工地帯を抜けるとすぐ、標柱付きの分岐地点に着いた。旧県道は峠まで続いているのだが、今回はここで分岐して古道を辿ることにする。頂上までもうひと登りである。
この区間も平成になってから有志によって発掘・整備されたものだ。現在ではたびたび古道を歩くイベントも開かれている。
古道で山中を行く。旧県道はそれなりに幅もあってどこか近代的な風貌を感じさせたが、古道は山道といった趣だ。
林が切れたところはからはこんな展望も。ここから道は再び林の中に入る。
ブナとナラの林を行く。古道ならではの光景。
古道途中の山中に裸杉なる巨木がある。幹周り3.9m。高さは約17.7メートル。峠一の巨木だ。
裸杉を過ぎると、道が険しくなる。張り渡されたロープを手がかりにして進んでいく。
古道を追っていくと、やがて車道と合流した。ひとまず古道はここまで。
車道に飛び出てすぐ北が宇津峠の鞍部である。地形図ではここに宇津峠の表記がある。鞍部はご覧のとおりの切り通しだ。標高約491m。
峠は飯豊町と小国町の境界である。そして最上川水系と荒川水系の分水嶺でもある。
ここでとって返し、大比戸以降の旧県道の様子もご紹介。
古道から分岐するなり、旧県道は状態が酷くなる。路上の薮は苅られた気配もなく、夏の荒れっぷりが容易に想像できる。ご覧のとおりの廃道だ。
とはいえ道跡自体はよく残っているので、迷う心配は無いだろう。幅員の広さや大きなカーブなど、作りは全く近代の道だ。
石垣発見。この道が近代以降の建造物であることを示す遺構だ。昔は自動車も通っていたというから、車が通れる程度に手が入れられてはいたのだろう。
大きく折りたたまれた広いカーブに遭遇。真ん中にぽつんと立つ一本の木は、この道が見捨てられた後に生えたのか。
最後の九十九折り。ここを登れば古道との合流地点、鞍部前に出る。
鞍部付近には様々な史跡が残っている。鞍部前、古道と旧県道が再び合流するあたりに馬頭観音の石碑がある。近年地元有志によって土中より発掘されたもので、飯豊町の文化財となっている。この峠の往来の多さや、馬の通り道となっていたことがうかがえる。
馬頭観音碑の目の前から小径が延びている。さらに追ってみよう。
小径は峠の広場につながっている。その途中、介小屋(たすけごや)跡なる空き地を発見。藩政時代には人が常駐する小屋がここに設けられ、避難所がわりになっていた。
峠に残る史跡の代表は、宇津大明神をはじめとする石碑群だ。広場のようなところに宇津大明神、道普請供養塔、山神碑など4基の石碑が並ぶ。
宇津峠が利用されるようになったのは戦国時代の大永元年(1521年)、当時置賜を領していた伊達稙宗による大里峠開鑿事業以降のことである。
それ以前にも越後と置賜を結ぶ道はもちろん存在していたが、より高く急な場所を通るものだった。群雄割拠の世において道がよいということは、攻められたら簡単に侵略されるということでもある。ゆえにあえて整備しないということはあたりまえだった。
大里峠は越後と置賜の国境にある。当時の情勢を考えれば整備は危険である。ところがここの場合、伊達家の勢力が強大で周辺諸侯が容易に手出しできなかったこと、隣接する上杉家と親戚関係にあったことなど、侵略される心配がなかった。そこで異例の新道開鑿とあいなったらしい。
大里峠の開通にともない越後街道の路線も見直され、徐々に新しい道路が作られていった。こうして十三峠と称される新しい越後街道が生まれたのだが、宇津峠が馬も通れる本格的な道となったのは江戸時代の慶安年間(1648年〜1651年)頃と考えられている。
置賜の支配者は伊達から上杉に変わったが、この道の重要性は変わらない。米沢藩の下で沿線の宿駅の整備が進み、峠は盛んに利用されるようになった。中でも米沢の特産品青苧を越後に運んだり、越後の塩を米沢に運ぶために欠かせない重要路線となっていた。
それでも宇津峠が難所であることに違いはなく、その後も幾度か、周囲の村から改修の請願が出されていた。特に幕末には、地元有力者らにより大きく手が入れられている。その工事の内容は雪崩れ場の新道付け替えと拡幅、石畳の敷設といった大規模なものである。石碑の一つ、道普請供養塔はその事業を記念したものだ。
この広場は「御殿場」と呼ばれ、往時はお堂もあったそうだ。宇津大明神は古くからここに祀られていたようで、諏訪峠の諏訪明神の兄弟神だと言われる。昭和37年(1962年)、旧国道のトンネル工事に伴い、一時期ふもとの落合地蔵尊に遷座し、その後さらに峠下の手ノ子に移転している。この石碑は旧国道工事の際に建てられたものらしい。
国道の整備によってここが廃道となると、これら石碑は永らく草に埋もれていたが、21世紀になってから地元有志による再発見が進み、現在はきちんと整備されている。
ちなみにこちらが移転先こと手ノ子の落合神社。現在宇津大明神はここに祀られている。神社は集落はずれの共同作業所脇にある。
宇津大明神碑がある御殿場の南に「イザベラの道」なる小径がある。これは明治初頭、この峠を越えたイギリス人旅行家イザベラ・バードにちなんでいる。
荒井が最初に訪れた当時(2008年6月)、「イザベラの道」は薮が酷くて通れる有様ではなかったが、その後苅り払いが進んで通れるようになった。道を5分ほど歩いたところにある沼は「馬洗場」と呼ばれている。
峠は馬の移出路でもあった。時には新庄戸沢藩の小国駒が小松に集められ、この峠を越えて越後方面に売られていくこともあったという。往時にはここで身体を洗ってもらったこともあったのだろう。
なお、イザベラの道は馬洗場の少し先で途切れていた。
宇津峠が交通の要であることは、近代になってからも同じである。そして当然のごとく、初代山形県令三島通庸の手が入っている。
三島は越後街道の重要性にも注目し、その改修に乗り出している。三島の計画は、橋や新道によって桜川渓谷を貫こうというものだった。桜川渓谷付近は険しい地形が続くため、旧十三峠は見事にこの渓谷を回避している。そこに新道を作るというのだから、三島の計画が当時どれほど大胆なものだったかわかろうものだ。
計画は断固として実行され、明治14年(1881年)に着工、明治19年(1886年)に完成した。三島による新しい道は「小国新道」と呼ばれる。
三島が計画した宇津峠の道は、当初宇津川(落合川)上流より尾根伝いに頂上まで登っていくものだった。実際ほとんど完成したのだが、急で遠回りだったため、程なく少し北寄りに別の道が作られている。これが現在峠に残っている旧県道で、明治27年(1894年)頃に竣工したものだ。宇津峠は急すぎて馬車で登れず、ふもとで馬車を分解して峠まで運び上げていったという、冗談のような逸話が残っている。
現在の鞍部南西方向、作業道を1キロ弱分け入ったところに、小国新道の名残とも言える切り通しが残っている。この切り通しは清明口と呼ばれている。
切り通しの先には古い道跡が確認できた。しかし雪解け直後にもかかわらず灌木の茂みや張り出す枝に覆い隠され、歩き通すのは難しそうな気配だ。
ちなみに清明の切り通しはアンテナ塔に至る作業道の脇にある。標柱こそ立っているが、気をつけていないとこれが歴史ある遺構だとは気付くまい。