伝説が意味するもの

 イスの伝説そのものは、5〜6世紀に原型が成立したものと見られています。伝説の担い手となったのはキリスト教に改宗したケルト人です。そのためキリスト教の影響を受けつつも、ケルト人ならではの考え方が色濃く表れています。


時代背景

 ケルト人とは、ケルト語を話し同じ文化を共有する各種部族の総称です。最初にヨーロッパに君臨した勢力であり、その文化は後のヨーロッパ文化の基調となっています。たとえば中世騎士物語の代表作「アーサー王と円卓の騎士」や大恋愛物語「トリスタンとイゾルデ」(注11)はケルトの伝説がその源流となっています。
 紀元前にはヨーロッパ全域でその勢力を誇りましたが、国家のような統一組織を持つことはありませんでした。そのためローマ帝国やゲルマン民族、アングロ=サクソン族といった新興勢力の台頭に伴いヨーロッパの隅に追いやられ、アイルランド、イギリスのウェールズ地方やスコットランド地方、そしてフランスのブルターニュ地方などに定着し、独自の文化を発展させることとなりました。その後民族・宗教対立をはらむ長い抑圧の時代を経て、現在ではその独自性が見直されるに至り、多くの人々を魅了しています。

ブルターニュ地方周辺図
ブルターニュ地方とその周囲

 イスの伝説はその数少ないケルト文化圏、ブルターニュ地方で育まれました。
 ブルターニュ地方とは、フランス北西部に突き出した半島部で、イギリス本土ことブリテン島コーンウォール半島の対岸にあります。
 「ブルターニュ(Bretagne)」の名前は「ブリテン(Britain)」に由来しまして、歴史的に深い関係にあります。伝説が成立した5〜6世紀は、ブリテン島やアイルランドに住むケルト人が、台頭してきたアングロ=サクソン人の支配から逃れようと、ブルターニュ地方への移住が進んだ時代でした。「ブルターニュ」には「ブリテン人の土地」といった意味があります。
 当時はちょうど、アイルランドで聖パトリック(St.Patrick)がキリスト教を布教した時代の直後で、彼ら難民の多くはキリスト教に改宗していました。
 彼らが信仰するキリスト教は、正統派のローマ・カトリックというよりはむしろ、ケルト化されたキリスト教でした。ケルトの宗教とキリスト教の世界観は重なり合う部分が多く、また聖パトリックをはじめとする宣教師はケルトの宗教を否定せず、むしろ融和を図りながら布教したため、ケルト人の間では、キリスト教は土着の文化や宗教を取り込む形で広まっていました。それは聖パトリックがケルト圏での布教に成功した最大の理由でもあります。
 こうしたケルト=キリスト教を信仰する人々が大量にブルターニュ地方に流れ込み、ブルターニュ地方の教化が進むと、そのケルト文化に影響を与えることになります。ブルターニュ地方のケルト伝承は、ケルト=キリスト教の影響が特に強いのが特徴でして、それを代表するのが、沈める都イスの伝説なのです。

伝説のキリスト教的側面

 イスの伝説を一見して、旧約聖書に現れるソドムとゴモラの伝説を思い出した方も多いのではないでしょうか。イスもソドムも不義のはびこる背徳の街で、それに対する神罰として一夜で消えたことになっています。不義・背徳・享楽の末には手痛い罰が待っている、というキリスト教的教訓を読み取ることもできるでしょう。そのとおり、イスの伝説はキリスト教の説話という体裁をとっています。
 生存者であるグラドロン王は、イスの都の中でただ一人キリスト教を奉じ、節制の生活を送っていました。逆にキリスト教を嫌ったダユーや都の住人は、その代償としてイスと共に沈むことになります。グラドロン王がキリスト者の代表ならば、ダユーは教化されなかったケルト人の代表です。
 伝説はまず、古い宗教に対する、この地でのキリスト教の勝利を表しています。それはサン島の巫女が自らの境遇を語る場面や、聖ゲノルが問答無用でダユーを打ち払う場面、そして伝説の最後、グラドロン王を看取ったドルイド僧が、聖ゲノルの誘いを断って森の中へと消えていく下りにもはっきりと現れています。

 ところが、イスの伝説の結びは「好き放題を極めた悪い王女ダユーは背徳の都と共に滅びました。めでたしめでたし。」といったものではありません。生存者グラドロン王は愛娘を失った悲しみでふさぎ込み、やがて寂しい最期を迎えます。そして何より、水没こそしましたが、ダユーもイスの都も「滅亡した」とは一言も書かれていません。逆にダユーは人魚として生まれ変わり、イスの都も海の底で地上と変わらぬ生活を営んでいるというのです。
 イスの伝説は一見キリスト教の説話ではあるのですが、ただ単に罪を戒めるだけの説話ではなさそうです。伝説は飽くまでケルト=キリスト教の影響下にあります。ケルト的な側面からこの伝説をもう少し深読みしてみましょう。

沈める都が意味するもの〜伝説のケルト的側面

 イスの都はダユーたっての願望で海に臨む低地に作られ、その周囲は堅固なダムで護られています。ふつうに考えれば、海が好きだったら海のよく見える場所に都を作ればいいだけであって、水没の恐れのある場所に都を作る必要はありません。
 にもかかわらず、なぜイスは海際に作られたのでしょうか? なぜダユーはそこまで海にこだわったのでしょうか?
 水門の鍵ではありませんが、イスの伝説を読み解く鍵となるのは、「きわめて海に近い」「不思議な女が治めている」という部分です。実はそこにこそ、ケルト人の精神を語る上で重要な意味があるのです。

 ケルト宗教の重要な概念に「他界」があります。一言で言えば「他界」とは死後の世界です。人は死後「他界」に生まれ変わる、死は終わりではなく「他界」での新しい生の始まりなのだ、という魂の不死を唱える信仰が、古代ケルト社会では広まっていました。
 ケルトの「他界」は永遠の若さと実りが保証された楽園として描かれます。死んでも新しい生を得て楽園に生まれ変わる。その考えは、ケルト人が死を恐れない勇猛果敢な戦士として、ヨーロッパを席捲できた精神的支えでもありました。また、キリスト教の「天国」の概念にも似ているため、ケルト人が比較的すんなりとキリスト教を受け入れた理由の一つとなっています。
 そして「他界」はまるきりの異世界ではなく、現世と陸続きであるとされました。たとえば、妖精や小人たちは「他界」の住人で、二つの世界を自由に往来し、現世で人間の前に現れては遊んだりいたずらをすると信じられていました。また、妖精たちに限らず、人間でも特殊な能力を備えた者ならば、生きながらにして二つの世界を自由に往来できると信じられていたのです。ケルトの伝説を見てみると、そうした話が非常に多いことがわかります。「他界」とは死後の世界であるばかりか、現世と重なりあう非常に身近な存在だったのです。

 ケルト人にとって、もっとも身近な「他界」は海でした。「他界」の楽園は海の向こうで、海や川を越えなければ行けない場所であるとされました。海は母胎の象徴で、川はこの世と彼岸の境界の象徴です。人が死ぬとその魂は現世と「他界」の境界を越え、母なる海へと還り生まれ変わる。海の向こうに豊饒の地「他界」があるのは、そうした考えを象徴的に示しているのでしょう。

 こうして見てみると、海に臨み空前の繁栄を謳歌するイスの都とは豊饒の地、憧れの地そのものだったのです。海に沈んでもなお人々が暮らしているのはそこが「他界」だからです。人魚になったダユーが象徴するように、人々は現世で死んでも新たな生を得て、「他界」こと豊饒の楽園で暮らしているということです。人魚を追って水に飛び込んだ人々も死んだのではなく、新しい生を得てイスで暮らしているということなのです。
 「海と陸の間にある」。そのこと自体が、生と死が交錯する場所、夢かうつつかわからない場所という、イスの性格を端的に示しているように思われます。

 ついでに。「アーサー王と円卓の騎士」の伝説で、アーサー王が最後に渡ったアヴァロン島も、こうしたケルト的「他界」です。「他界」の豊饒を象徴するのは林檎の果実でして、アヴァロンの名前はそれに由来します。ケルト人にとって林檎とは、恵みをもたらす太陽の果実と考えられていたようです。「イースIIエターナル」では、天空のイースでリリアさんが林檎を配っていたりしますが、意外とケルトの伝説に近い設定ということになります。

悪女か女神か〜ダユーの人物像

 ケルト人にとって海が特別な場所であることはわかりましたが、それでは、なぜダユーは海に執着にも似たこだわりを見せたのでしょうか。それはダユーの出自と関係があります。

 ダユー自身もイス同様、「他界」と現世の狭間に生まれた存在でした。ダユーは人間のグラドロン王と、海の妖精の間にできた娘です。海の妖精はもちろん「他界」の住人です。こうした伝説において、娘とは母親の生まれ変わりと同義ですので、ダユーも母親と同類ということになります。
 つまりダユーは生まれながらにして「他界」の住人だったのです。ダユーが海に憧れるのは、海こと自分の領域「他界」への憧れゆえでして、海と陸の間にイスを造営したのは決して、わがまま王女の気まぐれではなかったのです。

 そして「他界」を支配するのはこうした「他界」の女性でした。ケルトの伝説には、美しい女たちの住む島の話がよく出てきます。岬の沖にあるサン島が、古い宗教を守る巫女の島として描かれているのはその一例です。
 子供を産み育てる女性を創造の象徴とする考えは、エジプト神話のイシス神、ギリシア神話のガイア神、古代インド哲学の「シャクティ」などなど、古来世界中に広く見られます。古代ケルト社会は母権社会でして、創造を司る存在として大地母神崇拝が広まっており、「他界」はそうした女神の領域と考えられていました。

 ダユーがイスを治めているというのはまさにこれです。悪女ダユーとは、実はイスこと「他界」を司る豊饒の女神で、その源流をケルトの大地母神に見いだすことができます。事実、ダユーが変身した人魚も、ケルトでは豊饒の女神とされているのです。自身がケルトの女神なのですから、ダユーがキリスト教を嫌うのも当然といえば当然です。
 基本的に宗教は、自らが征服した神々を従属神や妖精として神話に組み入れたり、時によっては異端や悪魔に仕立て上げてしまいます。それはダユーも例外ではありません。一説には、当初伝説にダユーは登場しなかったのだが、時代が下るにつれキリスト教的に脚色されていき、放埒な悪女ダユーが登場するようになったといいます。
 ダユーの異名「アーエス」(Ahes)には「善良なる魔女」という意味があります。これが彼女の本来の役割を余すところなく表しています。

 「海は永遠の豊饒が約束された憧れの地『他界』だった」「『他界』を治めているのはこの世の住人ではない女神だった。」 こうしたケルト的視点でイスの伝説を読み解くと、これまでとは異なる姿が浮かび上がってきます。
 女神としてのダユーはケルトの宗教・文化の象徴で、そのダユーが治めるイスはケルト文化が花開く憧れの地です。そして聖人たちが象徴するのは父権的なキリスト教です。イスの伝説は母権的なケルト在来の宗教・文化が、父権的なキリスト教に取って代わられていく様、ひいては古き良きケルトの伝統が、新しいものに駆逐されていく様を象徴的に描いているのです(注12)。

 グラドロン王は敬虔なキリスト教徒でありながら、愛娘ダユーに愛惜の念を抱いていました。それは数々の民族・文化的侵略を受け、先祖伝来の文化を捨てざるを得なかった、ケルト人そのものの姿なのかもしれません。「こんな小径も、あなた方がお求めの道も、同じ神様のところにまで通じているのかもしれませんよ」というドルイド僧の言葉は、ケルト人の心境なのでしょう。イスは今でも海の底に存在し続け、いつの日か復活してパリ市に引けをとらない壮麗な姿を現すという言い伝えは、長年虐げられてきたケルト人の潜在的な願望を示しているのです。


イスの都比定地

ブルターニュ州
ブルターニュ半島の図。州は4県からなる。隣はノルマンディー州とロワール州。

 歴史的にはブルターニュ半島とその基部にあるナント市周辺を併せた一帯がブルターニュ地方にあたりますが、フランスの行政区的には、ブルターニュ半島にある4県(イール・エ・ヴィレーヌ県、コート・ダルモール県、モルビアン県、フィニステール県)をブルターニュ州と呼んでいます。面積は約2万7000平方km、日本の秋田県と岩手県をあわせたぐらいの広さで、そこに約280万人の人々が暮らしています。

 ブルターニュ地方は半島であるため、地理的にもケルト文化を閉じこめる形となっています。フランスというと瀟洒な印象のある国ですが、その中でもブルターニュは特殊な地域で、国内でもケルト文化が残る異境という印象が強いようです。特にケルト色が強い西の方では、古ケルト語の一つ、ブルトン語も使用されています(注13)。
 かつては貧乏な田舎として、中央の人間に蔑まれることが多かったようですが、ケルト文化の再評価が進む現在、その評判は国内外で高まりつつあります。名物はガレットこと蕎麦粉のクレープと林檎酒シードル、牡蠣をはじめとするリアス式海岸の幸こと、新鮮な魚介類です。風光明媚な景観、ドルメンやメンヒルといった、ケルト文化よりも古い巨石遺構(これもケルトの宗教では重要な意味がある)、数々の史跡、そしてケルトの香りを色濃く残す文化や伝承などなど、観光資源にも恵まれているようです。
 その一方で農業も盛んなようで、特に20世紀のカリフラワーやアーティチョーク栽培に代表される農業の大躍進は、フランス全土に影響を与えました。州の中心都市は基部に位置するレンヌで、こちらは工業と大学の街として知られているようです。

フィニステール県周辺の図
フィニステール県周辺の図

 伝説の舞台となったのは そのブルターニュ州のフィニステール県(Finistere)です。フィニステールとは「最果て」と言う意味で、文字通り、ブルターニュ半島最西端、大西洋に臨む一帯にあります。県庁所在地はカンペール(Quimper)。パリから西南西に約560キロほどの距離ですが、フランス新幹線TGVが開通しているので、パリから5時間ほどで行けます。
 カンペールはブルターニュの古都で、市内にはイスの伝説にも現れる聖コランタンの名を冠する寺院もあります。グラドロン王が治めた「コルヌアイユ」(Cornouaille)とはこのあたりのことで、市内の空港の名前にもなっています。コルヌアイユの名前はケルトの部族名コルノヴィイ族に由来しておりまして、対岸イギリスの「コーンウォール」(Cornwall)と同義です。

 先述した伝説によれば、イスはフィニステール県の西、「死者の海」(Baie des Trepasses)にあったとされています。「死者の海」は、シザン半島西端、「渦潮岬」ことラ岬(Pointe du Raz)とヴァン岬にはさまれた断崖がちの小さな湾で、外洋に面しており、特に沖は潮流が激しく、昔から海の難所として恐れられていたようです。沖にはダユーも渡ったサン島があります。
 湾には海難に遭った水死体がよく打ちあがったそうで、「死者の海」という不吉な名前はそれに由来するようです。ついでに、波が荒いということで、湾は波乗りの名所でもあるようです。
 ケルトの人々はフィニステールのまさに最果ての地から、死者は海の向こうにある「他界」に旅立っていくのだと、その場所に「他界」の都イスの姿を重ね合わせたのでしょうか。

 また、イスがカンペールに近いドゥアルヌネ湾(Baie de Douarnenez)にあったとする伝説もあります。ドゥアルヌネ湾はカンペールから北西に30キロほどの距離で、北をクロゾン半島、南をシザン半島に囲まれたリアス式海岸の入り江です。直径30キロにも満たない小さな湾で、南側には小都市ドゥアルヌネが臨みます。ドゥアルヌネはフランス有数の漁港で、日本でも知られるお菓子「クィニーアマン」発祥の地でもあります。ゲームの「ドゥアール海」はこのドゥアルヌネ湾から名前をとっているものと思われます。
 ドゥアルヌネ(Douar an enez)とはブルトン語で「その島の地」を意味しまして、湾内にはその由来となったトリスタン島という小島が浮かんでいますが、こちらはイスとはあまり関係なく、「トリスタンとイゾルデ」の主要人物、トリスタンが仕えたマルク王の別荘があった島だと言われています。
 外洋に面したリアス式海岸地帯は、津波になるとひどい被害を受けることでも知られています。伝説が成立する以前、津波でこの地の多くの町が大きな被害を被ったそうで、それが伝説の元になったといわれています。

 「イース」の元ネタとなった以外、日本とはまるきり縁のなさそうなフィニステール県ですが、意外にも縁があったりします。クロゾン半島の北の入り江にある港町ブレスト(Brest)が、神奈川県の横須賀市と姉妹都市提携を結んでいるのです。明治時代に横須賀に造船所を建てたお雇い外国人ヴェルニーが、ブレストと縁が深い人物だからということで、この提携が結ばれたのだそうですが、横須賀もブレストも軍港として栄えた街ですので、ヴェルニー以外にも通じる部分があったのでしょう。
 ゲームにはエステリアの対岸にある港町として「プロマロック」が登場しますが、フィニステール県のブレスト市はドゥアルヌネ湾には面していません。そのかわりドゥアルヌネ市の海に近い場所に、「プロマルク(プロマルコ)通り」(Rue des Plomarch)「サンティエ・デ・プロマルク」(Santier des Plomarch)という道がありまして、こちらが「プロマロック」の元ネタになったものと思われます。「プロマルク」とは「馬の海」という意味ですが、「トリスタンとイゾルデ」のマルク王(Marc'h)に由来するとも言われています。

 ブルターニュ地方やフィニステール県関連のサイトでは、イスの伝説を紹介している場所を結構見かけますので、伝説は地元でも比較的知られている様子です。


脚註

注11・「トリスタンとイゾルデ」のヒロイン、イゾルデはイス出身という設定。その主人公トリスタンはアーサー王伝説に出てくる円卓の騎士の一人でもある。物語は、マルク王に仕えるその甥トリスタンと、マルク王の妃イゾルデ(イズー)が、「これを飲んだ二人は永遠に愛し合って離れない」という媚薬を飲んでしまったがために燃えるような恋に落ち、その末に悲劇的な結末を迎えるというもの。

注12・母権社会から父権社会への移行は、イス事実上の支配者ダユーが、神の使いたる赤い男やゲノルの前ではおろおろしている姿に集約されている。「他界」で絶大な力を誇った女神さえ、「父なる神」の前では無力だったということは、とりもなおさず、母権に対する父権の台頭を意味しないか。

注13・20世紀初め、文化統一の名の下に、ブルターニュ州でブルトン語の使用が禁じられたことがあった。現在では逆に存続のため、保護活動が進められている。

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