通り抜けできないから、今度は宮城側から登ってみる。秋保温泉のさらに奥、秋保ビジターセンターが宮城側の峠口だ。
センターは観光案内所を兼ねている。峠周辺の交通情報はもちろん、峠周辺についての展示、案内地図や小冊子なども見られる。
キャンプ場隣接、向かいは温泉宿なので、人の出入りは多い。特にこの日は夏休みの最中で、キャンプを楽しみに来た方々で賑わっていた。
キャンプ場から少し進むと、すぐ砂利道になった。山形側とはうってかわって、宮城側には未舗装箇所が残っている。とはいえ山形側同様幅員は確保されているので、自動車でも十分通ることはできる...崩壊していなければの話だが。
宮城側も森に恵まれており、気持ちよい峠行が楽しめる。このあたりはまだ往来する車も多いから、通行の際は気をつけよう。
途中には姉滝と呼ばれる名所があって、昭和9年(1934年)に天然記念物に指定されている。看板につられて見物してみた。
滝は展望台のすぐ下にあるため、全体ははっきりと見えない。
かつてこの滝は「穴滝」と呼ばれ、穴から水が流れ落ちるという奇観が楽しめたそうだ。しかし昭和20年(1945年)に岩が崩れて穴が無くなったため、現在はただの滝になっている。浸食と甌穴の形成が進めば再び穴滝になる可能性もあるのだが、確かめられるのは数十万年後だ。
さらに先へと進む。このあたりはまだまだ道がよいが、次第に険しさを増してくる。
「磐司橋」なる小さな橋を渡ると、大きな水場があった。あたりは沢山のポリタンクやペットボトルを並べ、水を汲む人でにぎわっている。どうやら往来する車の多くは、この水が目当てのようだ。山形側に長命水があるように、峠は宮城側も水に恵まれている。
二口峠は大分水嶺でもある。峠に降って山形側に下った水は立谷川から最上川に注ぎ、日本海の水になるが、宮城側に下った水は名取川からそのまま太平洋に注ぐ。
水場を過ぎると人や車の往来は減り、あたりは静かになってくる。
北の方を見上げると、巨大な岩が見えてきた。高さは80〜150m、長さは3キロにも及ぶ。これが磐司岩で、その名は峠のはじまりに名を残す、伝説のマタギに由来する。
その昔、立谷川上流の深山に磐次郎と磐三郎という兄弟の狩人が住んでいた。二人はこの山域に遊び、猟をしながら暮らしていた。ある日そんな二人の前に、峠を越えて円仁と名乗る僧が現れる。
円仁は布教のため、旅をしている最中だった。磐次郎と磐三郎は、はじめこそ円仁を怪しんでいたものの、語り合ううちその徳の高さと志の強さを知り、すっかり感服してしまった。
この地の霊気に感じ入った円仁は、二人にこう言った。「仏法を広めるためこの地に霊場を作りたい。どうかご協力を願えないか。」 二人は円仁に協力を約束し、助力を惜しまなかった。
やがてこの地に立石寺という寺が建てられ、出羽有数の霊場となった。後に円仁は慈覚大師の名を贈られ、永きにわたってその徳を讃えられることになった。
聖地で殺生をするのは憚られる。磐次郎と磐三郎はこの地を離れ羽後の阿仁に移り住み、彼の地で猟をして暮らしたのだという。二人は今でも立石寺開山の功労者として山寺に祀られている。
磐次郎(左)と磐三郎(右)。二人は秋保のマスコットキャラクターにもなっている。
磐司磐三郎はマタギの開祖と呼ばれる伝説の狩人で、実在の人物であるかどうかは定かでない。慈覚大師による開山縁起も、やはり伝説の域を出ない。伝説から察するに、実際のところ、二口峠は狩人や修行者が往来する山道として始まったのではなかろうか。
磐司伝説は、諸国に伝わる磐神信仰に由来するという説がある。古人は巨岩奇岩の連なる峠に、容貌魁偉なるマタギの姿を見たのだろう。伝説のマタギの名を冠する巨大な柱状節理は、伝説にふさわしい偉容をたたえている。
磐司岩を眺めつつ砂利道を進むことしばらく、こちらにもゲートが現れた。残念ながら自動車で乗り入れられるのはここまで。
門扉は頑丈そうなワイヤーで、通すつもりもないと言わんばかりに封鎖されていた。ゲートが開かぬ限り、足か自転車でもなければ、ここから先へは進めない。
ゲートの傍ら、林に少し分け入ったところに、趣のある滝がある。これが白糸の滝。二口峠界隈の名取川上流は二口峡谷と呼ばれており、秋保大滝や磐司岩をはじめ、こうした奇勝名勝には事欠かない。逆に言えば、峠がそれほど険しい場所にあるということでもある。
ゲートを抜けるとすぐ、小さな橋で渓流を渡る。河底は見事な岩肌で、どうやら岩盤を直接削って水が流れているらしい。ここからが宮城側の本格的な登りの始まりだ。
ここまでは比較的カーブの少ない道が続いていたが、登りにさしかかると180度のカーブが次々に現れる。この九十九折りで、高度を上げていくわけだ。
前方の山肌を見ると、遙か高いところに道があるのが一目で分かる。ここからあんなところまで登っていくのだ。
砂利道とはいえ、取材当時(2006年8月)の路面状態は非常によく、歩いたり走行するのにそう困ることはなかった。しかし宮城側は山形以上に脆弱で、大雨や降雪等で容易に崩壊する。
証拠に翌年(2007年7月)の様子。車両での通行が困難なほどに道がえぐれてしまっている。
比較のため損壊箇所に座ってみた。どれだけえぐれたかはご覧のとおり。
二口峠界隈の地質は、大東岳の火山性堆積物から成っている。数百万年前、二口山塊の大東岳が大爆発し、周囲に火山灰や噴石、マグマ等をまき散らした。積もり積もった火山性の堆積物が永い時をかけて風雨に浸食された結果、現在の二口峡谷が生まれたのだと考えられている。二口林道の脆さや、険阻な渓谷美は、この浸食されやすい地質に由来している。
これまでの砂利道が嘘のように、立派に舗装された区間が現れた。
傍らの標柱によれば、平成17年(2005年)の台風被害を受け、復旧工事をしたものらしい。
先程の舗装箇所がちょうどはじまるあたりに脇道への入口がある。木立の間を少し歩いていくと、杉木立の合間に広場があった。ここが「二口」の名の由来となった番所跡である。
「二口峠」とは、厳密には二つの峠の総称である。
元来、この街道には二つの峠があった。一つは山形市の高瀬・高沢地区を経由する南の「清水峠」の道と、もう一つは同じく山寺・馬形を経由する北の「山伏峠」の道。二つの道は山形城下を出て間もなく二つに分かれ、それぞれに奥羽山脈を越えてから、秋保の前で再び一つに合流した。合流地点は「二口」と呼ばれ、街道そのものも「二つの道がある街道」という意味で二口と呼ばれるようになり、いつしかそれが峠の名になった。
峠を降りれば仙台城下は目前、いわば街道は仙台藩の「のど元」に通じる道だ。二口には仙台藩が番所を置き、道行く者に目を光らせていた。それがここというわけだ。
秋保町野尻地区。藩政時代に国境防衛の足軽が住み、農業従事者は一人もいなかったという。
目を光らせていたのは番所だけではない。峠下にある野尻地区も街道を監視するために仙台藩が設けたものだ。往時は足軽が住み、いざという時に備えていたそうな。
広場の片隅には旧い碑が三つ揃って建っている。その一つは「右ハ山寺道 左ハかうや道」と刻まれた追分碑だ。「かうや」こと「高野」とは、高沢地区の古名である。碑はまさにここが峠の名の由来となった「二口」であることを示している(!)。
ここが仙台藩国境の守りの要となったのは戦国時代末期、貞山政宗公の頃のようだ。藩政期には御境目守の屋敷が2軒あり、足軽が詰めていた。現在もちろん番所の建物はなく、草木に埋もれて石積みが残るのみとなっている。そのかわり無人の山小屋があって、登山などで利用できるようになっている。
山小屋の北東約30メートルほどのところに、歴代の境守の墓地がある。墓地は教室二つ分ほどの広さで、旧い墓石が40基ほど建っている。
広場からは薮に隠れて見えづらいが、ここのところだけきれいに草が苅り払われるなど、手入れが行き届いている。ある墓石を見てみると、最近供えられたらしい線香もある。どうやら今でもお参りに来ている方がいるようだ。