番所跡入口から先は、さらにえげつない九十九折りが続々と現れる。
だいぶ登ってきたはずなんだが...さっき見た場所はまだまだ上だ!
それでもめげずにまだ登る。下を見れば登ってきた道がぐねぐねとしているのが見えた。
派手にコンクリートが剥がれ落ちた法面を発見。この峠の補修工事、つくづくいたちごっこと呼ぶより他ない。
ちなみにここもその後補修された。
ようやく下から見上げていた山肌まで登ってくると、「展望台」という看板が立っていた。
真東にはこれまで登ってきた峡谷が見える。左の奥には来るとき見上げた磐司岩が目と同じ高さにそびえていた。
展望台を過ぎれば九十九折りは一段落。草と木に埋もれるような道を進む。
とうとう到着。一見広めの待避所にしか見えないが、ここが二口峠の鞍部である。古くは山伏峠と呼ばれ、馬形からの道はここを通って二口番所に通じていた。
峠には登山道を示す看板がある。山形側で見たやたら立派な標識付きの登山道はここに通じている。実はこの登山道こそが、古くの山伏峠越えの道である。現在の林道が作られた際、峠の頂上を削ったとのことで、だから鞍部は広めの待避所のようになったのだろう。
ちなみに清水峠越えは、明治16年(1883年)に廃道となった。現在では宮城側の区間が失われているが、鞍部には県境ゲートや高沢地区からの登山道が通じており、これををたどって今でも行けるようになっている。
もう一つ、片隅には文化11年(1814年)に立てられた「鹽竃大明神」の碑もある。鹽竃大明神とはもちろん、松島湾に臨む塩竃市にある陸奥国一の宮、塩竃神社のことだろう。峠が陸前と羽前を結ぶ道として使われていたことがここにもうかがえる。
山形と仙台を最短距離で直結するとはいえ、二口街道は盛んに利用されたわけでもなかった。理由は簡単、険しいからだ。
関山峠、笹谷峠といった他の峠と比べ距離こそ短いものの、二口峠は最も標高が高い。それにこれまで見てきたとおり、道は二口峡谷の非常に険しいところを通っている。牛馬や車が通るには急で狭いため大量輸送には向かず、もちろん大名行列が往来するようなことはなかった。仙台藩も「のど元」を守るため、整備に乗り気でなかったと言われている。二口街道は、飽くまで笹谷街道の補助的存在、間道としての性格が強かったのだ。
とはいえ、それなりに人々の往来はあった。距離の短さと木陰を作る緑の多さゆえ、仙台からの五十集物(いさばもの)を運ぶ道としては都合が良かったし、山寺詣や出羽三山詣の道として庶民が通ることは多かったようだ。かつては立石寺で磐司祭が開かれたときなど、秋保からたくさんの人が峠を越え、見物に行ったものだという。
県境ゲートを鞍部と勘違いしやすいが、山伏峠は県境から少々宮城側に入ったところである。県境まではさらに10分ほど歩かなければならない。
飽くまで間道でしかなかった二口峠だが、ほんの僅かな間だけ、活況を呈したこともある。
江戸時代が終わり、明治2年(1869年)になると二口番所が廃され、峠を自由に行き来できるようになった。また、同年横浜仙台間の汽船航路が開業し、従来の西回り航路に取って代わりつつあった。汽船が運んできた物資は「汽船荷」と呼ばれ、仙台はその集散地になっていた。汽船荷を日本海側に運ぶ道の需要は高まりつつあり、そこで仙台と山形を最短距離で結ぶ二口街道が、一躍注目を浴びることになったのだ。
番所跡には関所に代わり宿や飯屋が建てられ、百人以上の人夫が詰められるようになっていた。山形側の峠口である馬形や高沢にも荷問屋や旅館が建てられ、にわかに賑わいを見せるようになったという。
これを受け、明治5年(1872年)には仙台の士族大竹徳治と商人若生儀兵衛らが私費を投じ、二口峠の改修を始めている。二人は峠を有料道路化し、利用者から通行料を徴収することで、資金の回収を試みた。それには明治維新で扶持を失った、秋保の士族救済という意味もあったのだという。
しかしそんな時代は、あっけなく終わりを迎えることになる。
もう少し進むと、久々に建物が見えてきた。国土交通省の無人雨量観測所だ。人気のない山奥で、ひっそりと観測を続けている。
二口街道の繁栄に終止符を打ったのは他でもない、「土木県令」三島通庸による関山隧道だ。三島は万世大路をはじめとする道路整備を強力に推し進めたが、特に仙台山形連絡の要となる道の必要性を痛感していた。そして明治15年(1882年)、二口峠の北、関山峠に馬車や人力車が余裕で通行できる近代的な道、関山隧道が作られた。
楽で便利でしかも通行無料。こんな道が近くにできてしまえば、もはや大量輸送もできない有料道路を利用する意味はどこにもない。二口街道は急速にさびれ、大竹と若生は投下した資金も回収できなかったという。
二口峠の不遇はさらに続く。大正8年(1919年)には村道に格下げ、昭和16年(1941年)に仙台山寺線として県道に復帰するものの、新道が作られるようなことはなかった。交通の進歩、生活の変化、時代の流れ。そして二口峠は、次第に忘れ去られていったのだ。
街道を擁する秋保村は経済的に疲弊し、その解決のため観光に力を入れることになったのだという。姉滝の天然記念物指定や秋保大滝などの名勝指定は、それと無関係でない。
ついに宮城側からも県境ゲートに到着。この日も見事に閉まっていた。
現在の二口林道は、昭和29年(1954年)、山形宮城の観光交流促進を目的に、二口線改修期成同盟が結成されて以来の道である。
着工は昭和42年(1967年)、同48年(1973年)に全線の工事が完成している。しかし、毎年どこかしらが崩れたり壊れたりで、全線を通り抜けできた例があまり無い。昭和56年(1981年)、「山形県歴史の道調査報告書」の調査団が訪れた際も、土砂崩れがあって通行止めになっていたというのだから、二口の林道は開通当初から脆い道だったようだ。管理にあたる県は、毎年の補修工事の出費に頭を抱えているらしい。さすが磐司磐三郎の遊び場、昔も今もそうやすやすとは通らせてくれない。
その後山形側も激しく道が崩れ、平成20年(2008年)頃から林道高沢馬形線合流地点より先には進めない状態が続いていた。ところが近年国から費用が出ることになったそうで、それにともない両県補修が進み、平成23年(2011年)10月30日、久々に全線開通した。山形側は旧馬形第1ゲートから七滝第2ゲート間が著しく補修されている。宮城側の未舗装区間も砂利はほとんど消え、踏み固められた平坦な路面に変わっていた。
二口番所入口の様子。平成18年(2006年)に訪れた際、このあたりは少し舗装されていたが、改修の途中なのか、舗装が剥がされていた。
特に宮城側は、崩落しやすかった場所を中心に、新たに法面を強化したり舗装し直したり、ガードレールが設けられたりと、ことごとく手が入れられていた。そのため以前よりはるかに整備は進み、未舗装区間はだいぶ減ってしまった。いずれ近い将来には、全線舗装されるのだろう。
しかし二口峠は相当に脆く、整備がいたちごっこであることはご覧のとおりである。ひとまず再び通れるようにはなったものの、翌年も再来年も安定して通れるかはわからない。
西南戦争に際し政府転覆を謀った角で収監されていた陸奥宗光が、明治12年(1879年)、山形監獄から宮城監獄に護送された際、通り道となったこの峠でこんな詩を詠んでいた。
峯の勢い弥高くして 鳥の背は低く
羊腸百里 雲悌を度す
行々て詩を就せども 賞むる人無く
石上の題 山霊と吟ず〜陸奥宗光 「二口嶺」
(2004年6月/05年6月/06年8月/07年5月・6月・7月/11年11月/12年10月取材・
2007年7月記・11年11月追記・改訂・12年12月追記)
場所:山形市山寺馬形と宮城県仙台市太白区秋保町の間。県道62号・主要地方道仙台山寺線および二口林道。標高934m。林道総延長19.019km(山形側約8.963km・宮城側約10.056km)。大分水嶺。
地理:
1・林道起点二口追分・石鳥居,2・古道入口・県道標識,3・長命水(1),4・長命水(2),5・長命金水看板, 6・林道高沢馬形線分岐・高沢馬形ゲート,7・旧馬形ゲート跡,8・広葉樹林地帯,9・中腹九十九折り地帯展望地,10・七滝ゲート, 11・中腹九十九折り地帯・村山盆地展望地,12・謎の歩道,13・県境ゲート・蔵王縦走路入口,14・清水峠,15・無人雨量観測所, 16・鞍部(山伏峠)・鹽竃大明神碑,17・展望台,18・二口番所跡入口,19・二口番所跡,20・大損壊地点・荒井が埋もれていた場所, 21・風の洞橋,22・白糸ゲート,23・白糸の滝,24・磐司岩展望地,25・水汲み場・磐司橋 |
所要時間:
山形側二口追分から県境ゲートまで自動車で約20分。宮城側白糸の滝ゲートから県境ゲートまで徒歩約2時間。自動車なら約30分。
特記事項:
冬季通行止めあり。毎年11月上旬頃から6月頃まで。もっとも、絶えずどこかが崩壊しているため、夏でも全線開通していることは稀。山形側は全線舗装。宮城側は一部を除いて未舗装。ゲートで閉鎖されているときは、徒歩か小型の二輪車でなければ通り抜けできない。また、七滝第二ゲートより先大型車は通行禁止。大雨時は全車通行禁止。四輪車は走っていなくとも、登山客や自転車は頻繁に見かけるので、通行には注意が必要。開かずの道だからか、開通していると渋滞になることも。
山形側に二ヶ所、宮城側に一ヶ所水場あり。二口番所跡に無人小屋翠雲荘(旧伝蔵荘)あり。番所跡入口には標識があるが、小さい上草に埋もれているので少々判りづらい。
山形側の峠下には立石寺、宮城側には秋保温泉、秋保大滝、秋保不動尊、二口温泉といった名所が揃っている。峠の行き帰りにどうぞ。1/25000地形図「山寺」「作並」。同1/50000地形図「山形」「川崎」。
「東北の街道 道の文化史いまむかし」 渡辺信夫監修 無明舎出版 1998年
「東北の峠歩き」 藤原優太郎 無明舎出版 2004年
「みやぎの峠」 小野寺寅雄 河北新報社 1999年
「山形県交通史」 長井政太郎 不二出版 1976年
「山形県歴史の道調査報告書 二口街道」 山形県教育委員会 1982年
「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年
秋保ビジターセンター制作の小冊子各種
「ブリ君のほーむぺーじ」 ブリ太郎様 URI:http://www5b.biglobe.ne.jp/~buritaro/top01.htm