鞍部県境

笹谷峠鞍部

 茂吉の歌碑からそのまま国道を進むと、数十メートルほどで県境に着く。ここが鞍部で標高906メートル。県境にはゲートが設けられており、宮城側が通行不能の場合、ここで通行止めになる。

 笹谷峠はその急峻さゆえ、古くから軍事的国境となっていた。鎌倉時代の「吾妻鏡」、藤原国衡(ふじわらのくにひら)敗走の下りにも、笹谷峠が出てくる。
 平治5年(1189年)、源義経をかくまったことに対する懲罰を口実に、源頼朝は奥州藤原氏征伐を始めた。奥州藤原氏の武将、国衡がこれを迎え撃ったが、28万余騎の大軍勢を前に敗走を余儀なくされ、「大関山」を越えて出羽国に逃れようとした。しかし果たせず討ち死にしたと伝わっているが、この「大関山」とは笹谷峠のことだと言われている。
 時代が下って戦国時代、今度は仙台伊達藩と山形最上藩が峠を挟み、互いににらみ合うことになった。当時は防衛上の理由から、他国への通路となる峠は、あえて険路のまま放置されることが多かった。峠はその地形ゆえに天然の要害とされたのだ。

県境ゲート閉鎖中
閉鎖中の県境ゲート。画像は1999年10月のもの。


鉄塔

笹谷峠の鉄塔

 笹谷峠名物。峠は電線の通り道でもあるため至るところに鉄塔が立ち、峠行は始終鉄塔を眺めることになる。特に鞍部付近は鉄塔が間近に立っているせいか、ひときわ目立って見える。


宮城側の様子

宮城側の峠道・上の方 仙人沢登山口入口の急カーブ 補修箇所の上から行く手を見やる

 宮城側は大きく折りたたまれた九十九折りを繰り返し、緩やかに下っていくことになる。これは西が急、東が緩やかな勾配を描く奥羽山脈の特徴に由来するもので、他の奥羽越えの峠でも、おおむね似たような特徴があらわれる。
 江戸時代になって太平の世が訪れると、それまでの軍事的緊張が解け、峠は次第に商業の道として利用されるようになっていった。笹谷峠は仙台と山形、二つの城下町を、ごく短距離で結ぶため、物流の道として都合がよい。山形からは塩魚・木綿・生糸・小間物などが仙台へ、仙台からは活魚などが山形に入ってきた。山形の品物は北前船と最上川舟運によってもたらされたもので、仙台の活魚は鮮度が落ちないよう、笹谷越えの距離の短さに注目してのものだった。
 他には出羽三山詣での参詣客、時には参勤交代路として大名行列が通ることさえあった。もともと江戸時代初頭、参勤交代には笹谷峠が使われていたのだが、大人数が通る参勤交代の道としては急峻すぎたゆえ、かわりに金山峠が整備されて利用されることになったという経緯がある。
 笹谷峠を越えて二つの城下町を結ぶ道は「笹谷街道」と呼ばれ、江戸時代に特に活況を呈した。その名称は現在の国道286号線にも受け継がれている。

補修箇所のあたりから上の方を振り返ったところ

 宮城側はとにかく長い。振り返れば通ってきた道が上の方に見えている。


補修箇所

宮城側の補修箇所その1 宮城側の補修箇所その2

 宮城側にはコンクリートで大規模に法面が補強された箇所がいくつかある。1990年代後半、自然災害による土砂崩れが度重なり、平成14年(2002年)に復旧するまでの間、宮城側は長らく通行止めになっていた。


仙人沢の水場

仙人沢脇の水場

 宮城側にも水場がある。隣には車を停めるのにちょうどよい広場もあるので利用しやすい。

仙人沢

 水場のすぐ脇を流れるのは仙人沢。水場の脇から数メートルほど藪を分け入ると、ちょっとした渓流が眺められる。


木漏れ日の峠道

木漏れ日の峠道

 急峻ではあるが、現在の道は全線舗装で整備が行き届き、風景も良く楽しく通れる。幅がないので離合の際はご注意を。

 江戸時代には物流の道として、まさに「生きのたづき」が行き交った笹谷峠も、明治になると衰退の時が訪れた。
 明治2年(1869年)、仙台横浜間に汽船航路が開かれると、それまでの日本海西回り航路に代わり、太平洋経由で物が入ってくるようになった。これを受けて時の県令、三島通庸が関山峠に隧道を作ると、便利のいいそちらが盛んに利用されるようになり、笹谷街道は廃れることになった。
 その後明治20年代に新道が建設されたが、あまりの急勾配に馬車が通れず、あいかわらず、輸送は牛馬や人の背に頼らざるを得ないという有様だった。現在の九十九折りは、このとき作られた新道が元になっている。そして明治30年代、山形県内の奥羽本線が開通して鉄道が物流の主役になると、笹谷峠は急速に衰えた。大正時代に自動車輸送が登場しても、その峻険さゆえ笹谷峠は敬遠され、地元の住民が山菜採りで細々と利用する程度になってしまった。
 そして昭和12年(1937年)、山形と仙台を結ぶ鉄道、仙山線が全線開通したことにより、笹谷峠の衰退は決定的となった。


山形自動車道

笹谷トンネル出口上から山形自動車道を眺める

 だいぶふもとまで下りてきた。笹谷トンネルの出口上で山形自動車道を横切れば、間もなく峠越えも終わりである。
 一度笹薮に埋もれかけた笹谷峠だったが、戦後再び脚光を浴びることになる。
 戦後ともなると、物流の主役は鉄道から自動車に移りつつあった。当時山形市と仙台市を自動車で往来する場合、比較的整備が進んでいた関山峠か二井宿峠への大幅な迂回を強いられた。
 しかしそれは通行者にとって大きな負担であるばかりか、流通業者にとっても悩みの種だった。かさむ燃料代に山形・宮城間の流通量の格差。昭和53年の統計によれば、両県の流通量は、宮城から入ってくる方が、山形から出て行く方より十倍以上も多かった。こうした状況を改善するため、かつて二つの城下町を結んだ主要道、笹谷街道が再び注目されることになったのだ。
 昭和32年(1957年)、笹谷街道が主要地方道に指定されると、道路の改築が始まった。昭和41年(1966年)に宮城と山形を結ぶ高速道路こと山形自動車道の建設が計画されると、笹谷街道はその路線候補となった。そして昭和44年(1969年)の国道286号線昇格を経て、昭和47年(1972年)、峠の地下にトンネルを掘ることが決まった。これが笹谷トンネルだ。
 トンネルは昭和48年(1973年)に着工したが、工事は難航を極めた。奥羽山脈を貫く3000メートル級の長大トンネルである上、固い岩盤、そして毎分5トンも湧き出す地下水が行く手に立ちふさがった。また当時はオイルショックの真っ最中で、これも工事を遅らせた。「やまがたの峠」ではその難航ぶりを「1メートル掘るのに百万円」と記している。
 しかし関係各位の努力と奮闘の結果、昭和55年(1980年)、ついに笹谷トンネルは竣工し、翌年4月念願の開通を見た。全国の国道では初の有料区間となったが、それでも開通4ヶ月で早くも通行台数100万台を突破し、関山峠と並ぶ奥羽越えの主要道となった。さらに山形初の高速道路となる山形自動車道も、計画どおり笹谷街道に沿って作られることになった。こうして笹谷街道は、再び物流の道として復活を遂げたのだ。
 笹谷トンネルは国道286号線の新道という位置づけだったが、当初から高速道路に組み込まれることを前提としていたので、三桁国道であるにもかかわらず、高規格道路として建設された。実際、後年には山形自動車道と接続され、平成9年(1997年)には予定どおり高速道路に昇格している。とはいえトンネルが旧道の迂回路であることは今も変わらないため、峠越え区間のみトンネルを利用することもできる。その出入り口となるのが、峠口に設置された関沢と笹谷両インターである。
 トンネルの利用は増し、平成にもなるとトンネル付近は渋滞することも増えた。これを受け、平成10年(1998年)より山形自動車道四車線化の一環として、峠にもう一本トンネルが作られることになった。これが下り車線のトンネルで、技術の進歩のおかげで4年後の平成14年(2002年)に開通している。


阿古耶の松

阿古耶の松

 出口に下りていく途中に、阿古耶(あこや)の松と呼ばれる老木が生えている。笹谷峠のもう一つの名の由来は、この老松にまつわるものだ。
 その昔、出羽の千歳山のふもとに、信夫郡領主藤原豊充(ふじわらのとよみつ)卿の娘で、阿古耶姫というやんごとなき女性が住んでいた。ある日姫の前に名取太郎なる美男子が現れ、二人はたちまち恋に落ち、逢瀬を重ねていたが、やがて別れの時が訪れる。
 太郎は千歳山のてっぺんに生える松の精だった。その松が隣国陸前名取川に架かる橋材として切り倒されることになり、もう会うことができなくなった。別れの前の日、太郎は姫にそう明かした。
 松の木は峠を越えて陸前へと運ばれることとなったのだが、峠にさしかかったところでひとつも動かすことができなくなった。別れを悲しんだ阿古耶姫が、峠で松の木に別れの言葉をささやきかけたところ、松の木は再び動き出した。その後峠は「ささやき峠」と呼ばれ、それがなまって「笹谷峠」になったという。
 その千歳山の松の子孫がこの松で、名取太郎の二代目と伝えられている。樹齢約300年、高さ30メートル、幹回り3.7メートルを誇り、初代阿古耶の松も同じように堂々たる大木だっただろうことを思わせる。阿古耶の松も有耶無耶の関と同じく歌枕として知られ、これを詠んだ和歌も多く作られた。
 伝説は飽くまで伝説に過ぎないのだろうが、両県にまたがる物語から、それだけ古くから、峠を越えて互いに密接な交流があったことがうかがえる。


笹谷インターチェンジ合流点

山形自動車道高架

 山形自動車道の高架をくぐると、間もなく山形自動車道笹谷インターが見えてくる。

山形自動車道笹谷IC合流点

 九十九折りの峠道はここまで。笹谷インターからは、トンネルを往来する自動車が、ひっきりなしに出たり入ったりしている。
 現在、「生きのたづき」はトンネルを行き交い、かつての道も、休みになれば観光や山登りに訪れる人々で賑わっている。山形で最も旧い峠は、今なお様々な人々が盛んに行き交う山形屈指の主要道なのだ。

(2006年6月取材・8月記)


案内

場所:山形県山形市関沢と宮城県柴田郡川崎町笹谷の間。県境。国道286号線および山形自動車道。峠越え区間約12キロ。標高906m。

所要時間:
山形自動車道関沢インター分岐点から同笹谷インター合流点まで自動車で約40分。同自動車道笹谷トンネル利用で10分ほど。

特記事項:
国道286号線冬季通行止めあり。山形県山形市関沢から宮城県川崎町笹谷まで。11月上旬から4月下旬まで。例年5月の連休頃までには通れるようになるが、状態によっては5月下旬まで通れないこともある。
 また同区間通行車両制限および天候による規制あり。重量5.0tを越える車両および全長6.0mを超える車両は通行禁止。時間雨量30ミリ以上、または継続雨量が100ミリを越えたときおよび積雪量70センチを越えると通行止め。
 山形自動車道笹谷トンネルは通年通行可だが、高規格道路であるため、歩行者・125cc以下の二輪車・軽車両などは通行できない。こちらも台風や大雨の影響で通行止めになることがあるため、交通情報にはよく耳を傾けておくこと。国道286号線にある電光道路情報板には、峠の状況が出ていることが多いのでこちらも参考に。
 鞍部付近の古道は遊歩道として整備されているが、基本的に山道なので歩きやすい格好で行くことをすすめる。国土地理院1/25000地形図「笹谷峠」。同1/50000「山形」「川崎」

参考文献

「小国の交通」 小国町史編集委員会 1996年

「笹谷トンネル4車線完成記念誌 ふた國の生きのたづきのあひかよふこの峠路を愛しむわれは」
 JH日本道路公団東北支社 仙台工事事務所 2002年

「新装版 日本百名峠」 井出孫六編 マリンアド 1999年

「東北の街道 道の文化史いまむかし」 渡辺信夫監修 無明舎出版 1998年

「みやぎの峠」 小野寺寅雄 河北新報社 1999年

「歴史の道調査報告書 笹谷街道」 宮城県教育委員会 1979年

「山形県交通史」 長井政太郎 不二出版 1976年

「山形県歴史の道調査報告書 総集編」 山形県教育委員会 1981年

「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年

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