古道峠口

峠口付近の様子

 車道の峠を確かめたところで、今度は古道の峠を確かめるべく、再び古道入り口に戻ってきた。地形図に与蔵峠として記載されているのは、古道の方の峠である。入り口には「与蔵の森」の大きな看板と、登山口を示す標柱があるので、一目でそれとわかるだろう。
 もちろん古道は自動車では通れない。ここから峠までは歩いて登っていくことになる。


ブナ街道

いきなり現れるブナの森 ブナ街道

 古道を歩き出すと、さっそく見事なブナの森が出迎えてくれた。道跡もしっかりしているので、歩く分にはあまり心配がない。
 登山道として整備されている区間はほぼ全行程がブナやミズナラといった広葉樹の二次林の中を通っている。そのため峠まで4キロほどの道のりは、まさににこんな森ばかりが続く。

ギンリョウソウ

 足下を見れば至るところにギンリョウソウが生えていた。初夏の山歩きではよく見かける高山植物。


唯一の難関

行く手に沢筋

 歩き出して程なく沢筋に遭遇。例によって道が沢筋に吸い込まれていくように見えるが...

沢筋を渡る

 注意してあたりを見渡すと、沢を渡る小径が見つかった。この沢を渡るところだけ、道がどこにあるのか少々わかりづらいが、ここさえ抜ければ、あとは特に迷うこともない。

沢を渡って一安心

 沢を渡ると、再びしっかりした道跡が現れる。あとは峠までひたすら歩くのみ!


最上を後に

鉄塔の見える尾根道

 ひらけた斜面に出てきた。すぐそばには鉄塔と送電線が通っているのが見える。

最上の見納め

 振り返ると送電線の先に、新庄の盆地が広がっていた。ちょうどここが最上の見納め、絶景を背負い、道はいよいよ庄内へと向かう。


足下注意

ころり転げた木の根っこ

 峠とはいうものの、与蔵峠の道は平坦な尾根を辿っているため上り下りがあまりない。尾根道を辿るのは旧い峠の特徴で、与蔵峠が相当に旧い道であることがここからもうかがえる。
 しかしところどころには木の根などが張りだしていて、うっかりすると足を取られることもある。荒井はここですっ転び、写真機のレンズ保護フィルターを破損した。平らだからといってくれぐれも油断はなさらぬように!(泣)


送電線をくぐる

送電線をくぐる

 眼下に湯の里林道を眺めつつ、古道で送電線をくぐる。このあたりから峠は本格的な尾根道へとさしかかる。

最上幹線

 この送電線は最上幹線である。酒田共同火力発電所で作った電力を最上・村山地方に届けるためのもので、山形の電力供給には欠かせない送電線の一つだ。
 最上と庄内を結ぶ道は非常に少ない。国道47号線磐根新道、国道344号線青沢越え、そしてこの与蔵峠の林道と、現在でこそ3本の車道が開通しているが、地形や積雪等の問題から国道47号線に交通が集中しており、事実上国道47号線一本に頼っていると言っても差し支えはない。
 しかし電力に関してはそうでもなかったようだ。峠が庄内と最上を結ぶ最短経路であることはもちろん、起伏の少ない地形だったことも、大規模な送電線を作るのには都合が良かったのだろう。与蔵峠が今でも生き残っているのは、やはりこの最上幹線の存在が大きいと思われる。


一等三角点

一等三角点案内標識

 送電線をくぐると、間もなく「一等三角点」の立派な標柱が現れる。なかなか拝めるもんじゃないのでついでに見物して行こう。

一等三角点への小径

 標柱のあるところからは薮っぽい小径が分岐している。

一等三角点「與蔵峠」

 3分ほどの歩きで一等三角点に到着。地形図では古道が郡界を越えるあたりにある702.6mの三角点として記載されている。ちなみに記録によればここに三角点が設置されたのは明治27年(1894年)のことで、三角点名も旧字体の「與蔵峠」となっている。


登山道の様子

落ち葉を踏みしめる小径

 森の小径はまだまだ続く。木漏れ日を受け、落ち葉を踏みしめながら歩く。本当最高。

明るい森

 古道とはいうものの勾配は少なく、路面もよく均され幅もそれなりに広い。走るのはもちろん、山チャリでも十分通れそうだ。


つつじヶ丘

つつじヶ丘案内標識

 一等三角点より15分ほど歩いたところで「つつじヶ丘」の標柱を発見。ここから鉄塔の立つ広場に出られる。

つつじヶ丘から見る月山 同じく庄内平野

 鉄塔の足下は格好の展望台で、月山や庄内が見事に見える。最上地方の山奥から庄内平野が見えるのは驚き!

咲き残ったツツジ

 「つつじヶ丘」の名のとおり、鉄塔周辺にはツツジが植わっている。時期には少々遅かったが、少し咲き残っていた。


続・登山道の様子

緑のトンネル 大木の門

 つつじヶ丘を出て峠に向かう。緑のトンネルや大木の門などなど、見事な森に歩いて飽きるということがない。


みはらし台

みはらし台案内標識

 つつじヶ丘から数分歩くと、今度は「みはらし台」の標柱と遭遇した。

みはらし台から見るふもとだけの鳥海山

 みはらし台は北方の展望が得られる森の切れ目である。鳥海山も望めるようだが、この日は雲のおかげであいにく裾野しか見えなかった。


峠に近づく

密集するブナ ブナの樹影

 ブナの密度が増してきた。このあたりまで来れば峠はそろそろ。


大芦沢登山道合流点

大芦沢登山道合流地点

 だいぶ峠に近づいたところで、別の道への分岐が現れる。こちらは羽根沢の北、大芦沢につながるもので、途中には「まぼろしの滝」と呼ばれる名勝が控えている。ちなみに大芦沢の道は地形図には載っていない。
 与蔵峠は羽根沢口から登るのが主流となっているが、古くは大芦沢口から登っていたらしい。ただし時代が下るにつれ便利のいい羽根沢口が盛んに利用されるようになり、現在に至っている。


峠の手前

峠は目前

 合流点を出ると程なく左右を山に挟まれた谷間に出る。ここまで来れば峠はもう目の前。


与蔵峠と与蔵沼

与蔵峠

 かくして峠口から一時間半ほど、楽しい森歩きの末峠に到着。標高約640m。鞍部には与蔵沼なる小さな沼(面積約0.3ha)があって、峠名の由来となっている。

 その昔、峠のふもとに与蔵という男がいた。与蔵は炭焼きを生業としていたが、その日も仲間とともに峠で炭を焼いていた。そのうち昼餉の時間になったので、与蔵はおかずに川で獲れた岩魚を二尾焼き、仲間は水を汲みに沢に下りていった。
 やがて岩魚が旨そうに焼けてきたが、仲間はなかなか戻ってこなかった。与蔵は待ちきれずに自分の分の岩魚を食べていたが、あまりの旨さについ手が伸び、仲間の分まで平らげてしまった。
 すると突然のどが渇きだし、どうにも収まらなくなった。沢に下り手で水をすくって何杯飲んでも収まらず、沢をせき止めなお飲んでも一向に収まらない。与蔵はがぶがぶと水を飲み続けた。
 一方、仲間が作業場に戻ってみると与蔵がいないことに気がついた。探しに沢の方に下りていくと、なぜか先ほどまではなかった沼ができている。仲間が沼に向かって「与蔵やーい!」と呼びかけると、「おーい!」という返事とともに、沼の水を割って大蛇が現れた。大蛇は与蔵のなれの果てだった。仲間の分まで魚を食べてしまった与蔵は罰が当たって大蛇になり、沼の主になってしまったのだ。
 以来沼は「与蔵沼」と呼ばれるようになり、峠も「与蔵峠」と呼ばれるようになったという。

 伝説には異説があれこれとあって、大蛇になったのは木こり夫婦の息子で探しに行ったのは母親だとか、食べたのは岩魚ではなくて沼の鯉だとする話もある。与蔵のみならず、魚や蛇を食べたおかげで人ならざる存在に変化するという話は各地に伝わっている。この場合、魚や蛇というのは水神や龍神の象徴で、食べるということはその力を得る行為と解される。
 いずれにせよ重要なのは、この伝説が縄文時代以来の鮭信仰を留めていることである。

与蔵沼
その様子を「満々たる蒼海のごとし」と例えられた与蔵沼。鯉なども生息しており、沼の主然として悠々と泳ぎ回っていた。

 そもそも「鮭川」の地名は鮭が遡上してくることにちなんだもので、当地の人々は古くから鮭の恩恵にあずかってきた。藩政期には戸沢藩の貴重な財源となり、藩によって漁獲が厳しく管理されていた。鮭川のほとりにある庭月観音堂からは古代の鮭祭の遺構と思われる石組みが出土しており、縄文の昔から人々が鮭を糧にしていた証拠と考えられている。鮭を使った寒干しなども盛んに作られ、現在でも村の有志がこの技を伝えている。鮭とは恵みをもたらす神魚だったのだ。
 「いを」から転訛して「魚」を「よう」と読むことに因み、「与蔵」の語源を鮭に求める説がある。岩魚も鮭もサケ目サケ科なので、生物分類上きわめて近い間柄にある。岩魚を食べて大蛇になってしまった与蔵とは、鮭の力を得た神魚の主であり、水神の仲間というわけだ。

 その鮭の神が、なぜ川筋の真木から相当に分け入った山奥の沼の主になっているかについてだが、荒井なりの私見を披露しておく。
 与蔵沼に流れ込む河川は一切ない。沼の水は毎年の雪解け水や鞍部に降った雨である。にもかかわらず、沼は水が涸れることがなく、山中にこんな沼があることが不思議に思えるほどである。それと同様に、山奥に忽然と現れ常に満々と水をたたえる沼を見て、古人らは単純に不思議を感じたのではなかろうか? そしてそこに水神の神秘を見いだしたのではあるまいか。
 与蔵峠周辺の森は、鮭川の涵養林の一つでもある。鮭が遡上するような清流を育むには、豊かな源流の森が欠かせない。また回遊魚でもある鮭は、古代人に「生命の不滅」や「輪廻」を感じさせる存在でもあったはずだ。毎年故郷の川に戻ってきた鮭は、次の世代の命を残して果てる。その死骸もやがて分解されて川や森の養分となる。源流の森の鞍部に坐す涸れることのない沼は、彼らの目に鮭を育み鮭に育まれる森の象徴、神魚の主が宿るにふさわしい場所として映ったのではないか...と荒井は推測するのだがどうだろうか。


古道消失点

古道消失地点

 与蔵沼の先には二本ほど道がある。一本は後ほど紹介する山元林道に下りる道で、もう一本は地形図に記載されている古道である。古道は沼の北西から延びているが、5分ほど進んだところで笹藪に埋もれ、そこから先には行けなくなっている。

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