さっきの分岐を左に曲がるとすぐにゲートが現れる。冬には進行を阻んでいるゲートも、夏になればご覧の通り。国道はいよいよ十部一峠越えにかかる。ここから峠を下るまで、民家の類は一切ない。
ゲートをくぐると、道は細く険しくなる。この程度の路肩崩壊は毎年当たり前に見られる。
周りを見ても山ばかり。
やけに立派な国道標識を発見。やはりここは国道だった。
雑木林の木漏れ日の下を走る。大師峠までは林がちな道が続く。
ゲートから2kmほど走ると、最初の砂利道が現れる。世にも珍しい国道の砂利道だ。
十部一峠は大蔵村と寒河江市の境界で、最上郡と西村山郡の郡界である。山道はまだまだ続く。
砂利道をしばらく走っていると、砂防ダムが現れる。こんな山奥にどうやってこんなものを作ったのやら。
砂防ダムから1km弱のあたりに、祓川の沢に降りられる場所があった。しばし瀬音を聞きながら一休み。沢の水はこのまま飲めそうなほど澄んでいた。
沢から戻って少し進むと、これまでの山道が嘘のように立派な舗装路が現れた。大蔵村にとって国道458号線は村内唯一の国道であるため、整備に熱心なようだ。せめて砂利道は残していただきたいけれど...。
沿線にはちょくちょく法面が崩れたらしい場所が現れる。これまで幾多の崖崩れがあったのだろう。
肘折から約12.5km。十部一峠までは、ここからもう一走りすることになる。
厳密にはここは大師峠ではない。もともと十部一峠への道は現大師峠の北西、肘折と永松を結ぶ山中を通っており、本来の大師峠はその途中にある。ところが昭和41年(1966年)から同56年(1981年)にかけ、峠越え区間の前身、主要地方道新庄大江線の整備が進められた結果、旧道の南側を通る新道が作られ、旧大師峠は道筋から外れてしまったのだ。
大師峠を出ると間もなく、再び砂利道が現れる。ガードレールの類はないので、崖から落ちないようくれぐれもご注意を。今度の砂利道は3kmほどの距離。
天気が良ければ、大師峠を越えると月山がぐっと間近に迫ってくる。国道は月山と葉山の間(かなり葉山寄りだが)を通っている。
十部一峠そばまでやってきた。峠の手前からは葉山(1462m)に続く林道が延びている。葉山は月山の東、大蔵村・寒河江市・村山市の境目にある山。
ここの終点から葉山山頂までは約1時間で、葉山登頂最短コースとして知られている。葉山と名の付く山は全国各地にあるが、ここの葉山はその中でも最も標高が高いらしい。
ついに十部一峠到着。標高874m。肘折からここまで約18km。国道458号線の山場だが、展望は開けない。峠の近辺はきれいに舗装されており、通行量も意外に多い。
ここを境に北は最上郡大蔵村、南は西村山の寒河江市となる。
ちょっと寄り道。十部一峠から延びる永松林道をさらに6キロほど走っていくと、銅山川河畔の永松鉱山跡にたどりつく。銅山川の名前はもちろんのこと、「十部一峠」の名もこの鉱山にちなんでいる。
鉱山は江戸時代前から採掘がはじまり、以後300年にわたって銅を産出し続けた。江戸時代、採掘された銅は清水や合海に運ばれ、さらにそこから最上川舟運と北前船で全国に運ばれていった。明治以降も日本有数の銅山として、三千人もの人々がこの地に住み、採掘に従事していたという。
しかし昭和36年に休山となり、住む人は誰もいなくなった。もちろん今は無人で、わずかばかりの遺構が残るのみとなっている。
坑道は銅山川の対岸にあるが、見に行くことはできない。橋脚を残して落ちてしまった橋や、川越しに見えるズリ山(製錬時に出る鉱滓の山)に、かつての姿がかすかに偲ばれる。
広場には清水が湧いている。まだここに人が住んでいた頃、飲み水として使われていた湧き水で、廃村以来地中に埋もれていたものを、近年有志が復活させ、整備したものという説明が付けられてあった。旅人には何よりのもてなし。遠慮なくご馳走にあずかろう。
水場前には手入れされたプランターが置かれてある。鉱山で生まれ育った方々が、時折故郷の様子を見に来ているようだ。今では何もない広場だが、往時には鉱山の事務所や住宅があったという。何もないだけに、その何もなさがかえって胸を打つ。ここにテントを張って一夜ぐらい野宿するのも面白そうだ。
峠は葉山や永松鉱山への道として発達したのだろう。十部一峠を寒河江側に下っていく。寒河江側は山の緑に埋もれているような道が10kmほど続く。天気が良ければ緑の合間から、西村山の盆地がかすかに見える。
寒河江側にわずかに残る砂利道。2000年には3km近かったが、その後舗装化が進み、今や1km足らずを残すのみとなった。ここも間もなく舗装化されるのだろう。
峠から6.5kmほど下った場所にある謎のプール。茶色く濁った水が溜まっている。その正体は鉱毒処理施設。峠の寒河江側にも幸生鉱山があって、銅など産出していた。橋の先は立ち入り禁止。
沈殿池の近くで見つけた石塔群。採掘に従事した名もなき坑夫達を弔うもののようだ。石塔群は幸生鉱山跡の真向かいにあって、閉山した鉱山を見据えているようにも見える。
寒河江側の峠口にある砂防ダム。ここから先は徐々に集落が現れる。
峠を下りて寒河江側最初の集落。肘折以来久々に見る人家にまずはほっとする。
幸生から4kmほど走ると、国道112号線に合流する。大江町に向かう700mほどは、再び重複区間となる。
交差点の片隅には、六十里越街道と幸生の追分を示す道しるべがあった。
国道112号線を離れ、国道は上野大橋で寒河江川を渡り、大江町に入っていく。橋の上からは大きな堰が見える。
国道は画像の手前で、その奥が山形自動車道。大江町の手前で国道は山形自動車道と交差し、少しだけ併走する。山形で最も整備された道と、最も整備されていない国道が並んでいる。
ちょっと寄り道。楯山公園は大江町の国道沿線にある。公園そのものは小さいが、左沢の街並みや最上川が蛇行する様子がよく見え、県下有数の景勝地となっている。通称「日本一公園」。行く時は「朝日少年自然の家」を目印に。
公園は元々城があったところで、名前はそれにちなんでいる。公園内には四阿の他、「最上川舟歌」発祥の地を記念する石碑も建っている。
山形を代表する民謡「最上川舟歌」は、町内に住む渡辺国俊と後藤岩太郎が、舟運に携わる川沿いの村々に伝わっていた掛け声や作業歌を採集してまとめ上げたもので、昭和の初め頃に成立した。碑はその業績を讃えるもので、最上川を見下ろすこの地に立っている。