新・県民ケンちゃん特別編〜巨島山大洞寺

大洞寺の位置

 大洞寺は、山形県鶴岡市は藤島地区にある曹洞宗の寺院である。一見田舎のありふれた寺院だが、意外にも、日本のゲーム音楽史とゆかりがあったりする。


山門

大洞寺山門

 大洞寺は旧藤島町中心部、藤島庁舎からほど遠くない場所、藤島上町にある。通りに面した駐車場奥の山門が、境内への入り口だ。門には山号「巨嶋山」の額が掛けられてある。柱には「大洞禅寺」の表札があり、禅宗の寺であることがわかる。


伽藍

大洞寺本堂

 門をくぐるとすぐ本堂がある。近年建て替えたかリフォームしたらしく、外観はずいぶん現代的でこざっぱりした印象を受ける。しかし寺の歴史は古く、創建は南北朝時代にまでさかのぼる。

 寺の開祖は錦江玄文和尚なる僧である。もとは南朝に与した武士で、その名を大淵時與といった。大淵一族は美濃の出身でもともと高木姓を名乗っていたが、大淵村を居所としていたため、やがて大淵姓を名乗るようになった。南北朝時代の出羽国郡司・北畠顕信に従い出羽国に下ると、建武元年(1334年)、鳥海山を眺める平地に居を定め、一族の姓「大淵」をその地の名とした。ちなみにその「大淵」が現在の酒田市広野大渕である。そこにも「大洞寺」なる地名があり、つながりがうかがえる。
 時與には時義、義明という二人の息子がいたが、どちらも南北朝の争乱で亡くなった。戦乱の世に人が死ぬ様を見続けた時與は世の無常を感じ、暦応2年(1339年)に出家。永年にわたる諸国行脚の末出羽に戻ると、正平11年(1356年)、当地に寺を建て、菩提を弔った。

京田川と酒田市広野大渕
京田川越しに見る玄文和尚ゆかりの地・酒田市大渕。
近所の広野小学校は、大淵一族の館があった場所と伝わる。

 国府の出先機関である藤島城があったため、藤島は南北朝闘争の舞台の一つとなっていた。藤島城は南朝の支配下にあり、周囲の北朝方の武将がこれを狙っていた。当地で起こったそんな時代を感じさせるできごとが、土佐林道俊の誘殺事件である。
 正平12年(1357年)、北朝方の武将・春風治次が、時の藤島城主・土佐林道俊を、自城細谷館に招待した。日頃の政務をねぎらうためもてなしたいと、治次は恭しい態度を示したが、もちろんそれは罠だった。もとから細谷館におびき寄せたところで暗殺する腹づもりだったのだ。道俊の息子・道泰は、罠だから行くなと引き留めたが、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と道俊はわざと誘いに乗り、細谷館に向かった。しかし果たして、治次の計画どおり、道俊は暗殺されてしまう。
 この勢いに乗って治次は藤島城に攻め入ったが、息子・道泰が黙っているはずがなかった。治次は道泰の猛反撃に遭い、命を落としてしまう。道泰は見事父の仇を討ったものの、その代償は大きかった。この戦いでの負傷が原因で、まるで父・道俊や宿敵治次の後を追うように、道泰も三日後に亡くなってしまうのだ。
 争いは勝者も敗者も亡くなるという空しい結果に終わった。その道泰を弔ったのが大洞寺だと伝わる。

 曹洞宗は主に武士の間で信仰された宗派である。武士が勢力をふるう世で、争いに無常を覚えた武士が出家して、争いの渦中にある地に、なじみ深い禅宗の寺を開き、争いで亡くなった人々を弔ったというのは、当時の世相をよく反映している。争いの顛末を眺めただろう玄文和尚の心はいかばかりだったろう。

 玄文和尚についてこんな逸話が残っている。道俊誘殺の折、当地を訪れた按察使将軍源兼頼が和尚と対面し、その顛末を知ることになった。兼頼は戦いで失われた城を破却し、藤島領を大洞寺に寄進しようと提案したが、和尚は固辞した。曰く「所領を貪るのは兵奴のやりかた。僧の自分はそれを望まない。願わくば戦で苦しんでいる人々を助けてほしい。」と。
 正平13年(1358年)、和尚は亡くなった。その時兼頼は寺に多大な寄付を施したという。


大洞寺墓地

大洞寺墓地

 南北朝時代からの歴史がある寺院だが、意外にもこの寺、コンピューターゲームとも縁がある。コンピューターゲーム愛好家にその名を知られた早世の音楽家・斎藤学氏の墓がここにあるのだ。

 斎藤学氏は80年代に活躍したコンピューター音楽家である。昭和45年(1970年)1月26日、埼玉県に生まれた。小学生の頃、母・静枝女史のすすめによりピアノを学び始め、音楽の素養を深めていった。特にかの楽聖・ベートーヴェンに傾倒し、憧れていたようだ。聴いていたラジオ番組には「ベートーヴェン」のペンネームでハガキを送り、後には「埼玉のベートーヴェン」を自称さえしている。
 中学生の時、任天堂の家庭用ゲーム機「ファミリーコンピューター」と出逢う。だが、その音楽の幼稚さに不満を持つ。そこでコンピューターで芸術的な音楽を作ることを志し、独学でコンピューター作曲を始めた。ファミコンに限らず当時のコンピューターゲームの音楽はそれほど凝ったものではなく、学少年を満足させるものではなかったようだ。高校進学後、アルバイトをして自分のパソコンを購入。それと同時に音楽の勉強も続け、昭和60年(1985年)と翌年の2度にわたってオーストリアのウィーンに短期留学し、作曲とピアノの腕に磨きをかけた。

 かねてよりコンピューターでの作曲に親しんでいた彼が、その頭角を現すのはこの頃からだ。その活動は気鋭のコンピューター音楽家としてしばしば雑誌等でも紹介された。そして高校在籍中に東京は両国のソフトハウス・システムサコムにアルバイトとして入社(後に正社員)、ゲーム音楽制作の仕事を始めた。昭和62年(1987年)にはシャープX1用ARPG「ユーフォリー」が発売され、自身の手掛けたBGMが大好評を博す。その後「DOME」「シャティ」「ソフトでハードな物語」シリーズ、「幽霊君」等々、システムサコムのゲーム作品のため、数多くの楽曲を書き下ろした。その作風はクラシックを土台にポップスやジャズなど様々なジャンルのテイストを採り入れ、本人の音楽的素養の確かさがうかがえるもの。昭和63年(1988年)からは電波新聞社のパソコン雑誌「マイコンBASICマガジン」に連載されたシステムサコムコーナー「The inside affair of SACOM」の担当者として広報活動もするようになった。愛称は「マサ(マーサ)斎藤」。その「The inside affair of SACOM」では音楽スタッフ募集告知の際、「あらゆるジャンルの音楽に関心ある人。歌謡曲しか聴かないようではダメ」ということを条件の一つとして挙げており、彼の音楽家としての姿勢がうかがえる。

 80年代中盤、パソコンゲーム音楽はようやく鑑賞に堪えうる作品が登場しはじめ、新しい文化として認知されだした。その立役者は才能ある若いコンピューター音楽家たちである。その筆頭である古代祐三氏が、「ロマンシア」「ソーサリアン」「イース」でその名を上げたのもこの頃だ。学氏もそうした若手ゲーム音楽家の一人であり、コンピューターゲーム音楽界に与えた影響は大きい。平成元年(1989年)秋にはアドベンチャーゲーム「38万キロの虚空」で、日本初となる外部MIDI音源によるBGMを手掛け、日本ゲーム音楽史にその名を残す業績を成し遂げた。

 しかし活躍を続ける彼に、病魔が忍び寄っていた。平成2年(1990年)秋頃より、腎臓の病気で体力が衰え始め、闘病生活を余儀なくされることとなる。1991年3月号分の「The inside affair of SACOM」では、その様を「鼻から胃へ管を入れ、点滴をし、肛門に座薬をグリグリと入れられても耐えるだけの根性がなければ、立派なクリエイターにはなれないと思っていたまえ」「『ゲホッ、ゲホッ、う、血だ。なーんてネ』等という玄人にしかわからない冗談も出てしまうほど元気である」等々、おちゃらけた調子でネタにしていたが、洒落にならないほど深刻だったらしいことがうかがえる。
 治療のため点滴を刺すことがあっても、右腕への注射は病状が進行するまで拒んでいたという。その理由は、右腕は利き腕であり、回復したらピアノを演奏するため。ここに音楽家としての意地が垣間見える。
 しかしコーナーはなんの告知もなくその回を最後に終了、3月には腎臓摘出手術を受けた。小康状態のときには一時退院してテレビゲームなど楽しむこともあったようだが、病魔は確実に体をむしばみ続け、彼の命を削っていった。そして2年に及ぶ闘病生活の末、平成4年(1992年)の10月1日、賢不全により永眠。22年の短い生涯を閉じた。


斎藤家の墓

斎藤家の墓

 その「埼玉のベートーヴェン」の眠る墓が、なぜ山形の藤島にあるのか。それは斎藤家の家系が山形の出で父・彰氏の本籍が藤島にあり、その菩提寺が大洞寺だったからである。大洞寺には斎藤家の墓があり、学氏もそこに埋葬されている。

 斎藤家の墓は寺院付属の墓地の東側、月山を見上げられる日当たりの良い区画にある。白い御影石製のふつうの墓で、知らなければこれが「埼玉のベートーヴェン」の墓だとはわからない。墓は平成5年(1993年)に改められたものである。もとは学氏の祖父の墓らしいが、学氏の逝去を受け、父御さんが建て直したようだ。父が亡くなった子を弔うために建てた寺院で、また別の父が子の菩提を弔っているというのに、哀しくもどこか不思議なつながりを感じる。

斎藤家墓誌

 墓誌には祖父と並んで学氏の名と命日が刻まれてあり、これで彼が眠る墓だとわかる。戒名は「紘学清韻居士」。才能を惜しまれつつ夭折した音楽家らしい名を授けられている。
 短い生涯の間に、学氏は2000曲もの作品を遺した。太く短くを地で行く生涯だったが、今でも存命なら、さらに多くの名曲をものにしていたかもしれないと思うと、早すぎる死が今でも惜しまれる。
 彼が活躍したホビーパソコンの時代はすでに過去のものとなったが、彼の楽曲や携わったゲームのいくつかは、インターネットのダウンロード配信という形で今でも触れることができる。その輝きと名声は没後25年を経てもなお、衰えることがない。

(2017年3月取材・2017年4月記)


案内:

場所:
山形県鶴岡市藤島村東150。藤島上町こと旧藤島町中心部付近。

地理:

宇津峠概略図
1・藤島駅,2・庄内農高,3・藤島小,4・藤島中,
5・藤島体育館,6・消防署藤島分署,7・市役所藤島庁舎,8・藤島歴史公園,
9・農業試験場庄内支場,10・大洞寺,11・十一屋

所要時間:
JR羽越線藤島駅から徒歩約20分。鶴岡市藤島庁舎から同約15分。

特記事項:
墓参は自由にできるようになっているが、観光地化はされていない。斎藤家の墓には特に記念碑や標識等があるわけでもない。基本的に地域の寺院であり墓地なので、騒いだり迷惑をかけたりといった行為は慎みましょう。それと雪国なので冬になると雪が積もる。快適に墓参できるのは春彼岸あたりから。

参考文献:

「藤島上町史」 藤島上町部落会 1998年

「藤島町史上巻」 藤島町役場 2004年

「マイコンBASICマガジン」 1988年〜1991年の各号 電波新聞社

「大渕の起源」碑 酒田市広野大渕会館前

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